「愛」とは?金子光晴の愛情観

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 「愛情とは、体と体を寄せて、寒さを温めあうことなのだ」という金子光晴の名言だが、それは動物の生存本能であって、愛情のほんの一表現かもしれないが、愛情の定義にはならないはずだ。

 古代ギリシャは、「愛」を4種類に分けた――。

 エロス(Eros、本能的肉体的な男女愛)、ストルゲー(Storge、親子・兄弟の血縁に基づいた家族愛)、フィリア(Philia、友人間の友情、信頼や結束、連帯感)、アガペー(Agape、無条件・無償の愛、自己犠牲をいとわない宗教的博愛)。

 金子の女好きやその妻森三千代の不倫は、エロス。金子が息子を仮病に仕立て上げ、徴兵忌避させたのは、ストルゲー。この2つの愛はほぼすべての人(動物も)がもっている本能的な低次愛だ。フィリアやアガペーといった高次愛に金子が至ったのか、どうも見えない。

 それは「マズローの欲求5段階説」に照らしてみると分かりやすい。金子が一番低次の本能的生理的欲求(第1段階)、経済的収入による安定欲求(第2段階)に停滞しつつ、第3段階の所属と愛に基づく社会的欲求のあたりで葛藤を持ち始めたように見える。

 社会的欲求とは、いわゆる集団への所属感を得ることである。しかし、金子は社会契約に基づいた集団による束縛を嫌って、個体の自由を求める上で、離群していた。いわば、金子は第3段階の社会的欲求とそこから生まれるフィリアたる愛を得にくい状態になっていた。そこで金子は2つの方向から文脈を作り上げたのである。

 1つは、低次の本能的肉体的な男女愛に「個体の自由」という解釈を付与することであり、もう1つは、反戦という概念を疑似高次愛アガペーに持ち上げることである。そうすることによって、金子の自己正当化だけでなく、文人としての格付けも得たのである。

 「愛情とは、体と体を寄せて、寒さを温めあうことなのだ」という「名言」もまさにその文脈を裏付けるエビデンスになろう。ギリシャ哲学に照らして、その浅薄さが明白だ。「体と体を寄せて、寒さを温めあうこと」は愛情の1つの表現かもしれない、単なる生存本能かもしれない、複合体かもしれない。少なくともそれだけで「愛情」を規定することは短絡的過ぎる。

 私は決して文学批判しているわけではない。文学という「情」を哲学という「理」で評価すべきではない。ただ金子というひとの深層を透視するには哲学が少々有用なツールではないかと思う。哲学を用いて文学を裸にしたら、台無しだ。

 「愛」は複雑で、簡単に説明できないものである。

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