「不安を煽る」ことは、善である

 恐怖という感情は、目の前に危険が現れたとき、じっくりと論理的に対策を考える時間がなく、瞬時に逃げるなり緊急手段を講じるように反応させる優れた装置である。

 その恐怖感情が徐々に延伸し、危険の出現を予想・予見・予測し、ある程度の準備をしておくように進化する。それは緊急手段の有効性と生産性をさらに高め、多様な緊急手段を設定し、危険にもたらされる被害を最小化し、危険・有事下でも平時の状態を最大限に維持し、ないし危険そのものを回避するまで効用を際限なく最大化しようとするものである。

 恐怖感情はそれだけ優れた装置である。恐怖感情をもっている者がもっていない者よりも危険を乗り越え、長く生き延びることができる。そこでより多くの子孫を残すことができる。さらに恐怖感情は遺伝や教育(学習)などの手段によって後世に受け継がれていくのである。

 しかし、危険が少なくなり、平和な世界になると、恐怖感情の役割が低下する。恐怖感情をもっている者ともっていない者との生存率格差が縮まるにつれて、人間を不快にさせる恐怖感情はマイナス的に捉えられるようになる。そこで恐怖感情の遺伝も学習も鈍化し、恐怖感情に起源する緊急手段もリターン(利得)を伴わぬ単なるコスト(損失)に転じた。

 今の日本社会はまさにこうした状態に陥っている。1億総安心時代、恐怖感情を喚起する行為は、「不安を煽る」というレッテルを貼られた。

 本当に、危険が少なくなったのだろうか?本当に世界が平和になったのだろうか?そして今は本当に平時なのだろうか?これらの問いを提起するだけで、「不安を煽る」と世間に批判・指弾されるのならば、それはたった1つのこと、つまり最大の危険がすでに到来したことを意味する。

 恐怖感情を敵視することは、日本人の言霊文化に合致するだけに、容易に受け入れたのである。戦後の平和が「非常態」だった。いわゆる「失われた30年」によっていまは「常態」に戻りつつある。これからは、生存率格差時代に入るだろう。

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