私が学会をサボる理由とは?

 ここ数年、日本の学会(社会科学系)に出席していると、ある傾向に気付く――。

 報告(発表)は、データや統計、サンプル例示の多さである。数字がものをいう。データは大切だ。という「正論」、いや一種の「ポリコレ」の下で誰もがデータに文句を言えない。

 まず、1点目。データを集めるための調査対象人数を増やしていくと、平均値付近のデータ数がもっとも多く、両端のデータ数が少ない、という左右対称の「釣鐘」型の分布になる。つまり「正規分布」だ。そこからいわゆる「正常値」が出される。では、少数データの両端はすべて異常だろうか。そこはほとんど議論されない。

 つまり、「異常値」の形成要素も論理も無視され、これらを排除してたった1つの基準値(正常値)に照らして結論付けてしまうのだ。偏差値という概念には、日本人が過剰な親近感を持っている。大学ないし学部まで偏差値をつけられ、統計学が人生の最初から最後まで付きまとう。

 「異常値」の排除「正常値」への妄信・執着、ひいては「ポリコレ」の形成。これは今日の民主主義政治に酷似している。言い換えれば、政治が学術の分野に浸透し、純粋な学術も汚染されているということだ。

 次に、2点目。データの多用から生まれるもう1つの傾向は、「帰納法」の多用である。Aケースも、Bケースも、Cケースも正常値が同一傾向を示しているから、Dケースの正常値もこれであろうという推論だ。特殊事例から一般論を導き出すには、誤謬を生む蓋然性が断然高い。

 ロジカルシンキングにおいては、「帰納法」よりも「演繹法」が重宝されているはずだ。少々短絡的に簡単に言えば、三段論法だ――。「Aさんは人間だ+人間は死ぬ=Aさんはいずれ死ぬ」。だが、学会の報告では本質をえぐり出す演繹法を使う痛快な場面が相対的に、いやはるかに少ない。残念というよりも聞いていると、不完全燃焼でフラストレーションが溜まる一方だ。

 そういう意味で、私は最近少々食傷気味で学会をほとんどサボっている。

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