誰のために?美しいモデルと美しい風景

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 リゾートのプールサイドに、入れ替わりにモデル撮影クルーがやってくる。白人モデルもいれば、ベトナム人モデルもいる。みんな綺麗な若い女性ばかり。美しい風景に美しいモデル、写真はおそらく何らかの商品の広告宣伝に使われるだろう。そこでどんな消費者(見込み客)がそれに惹かれて商品を買うのだろうか。興味深い。

An Lamリゾート、プールサイドの撮影風景

 私は職業柄、夢もなく、すぐお金の計算が始まる。ディレクターからカメラマン、アシスタント、メイクアップ係、道具係、ITスタッフ(パソコンに写真を取り込み、その場で効果を調整する係)、外国人モデル用の通訳係、雑用係とずいぶん大掛かりな撮影クルーで、これでいくらベトナムの人件費が安いからといっても、結構なコストがかかっている。

 このコストは、広告宣伝費のほんの一部にすぎない。企画からメディア配信まで、1つの商品を売るためにこれだけ大きなコストがかかっているわけだ。もちろん、それは価格に織り込まれ、消費者に転嫁する。

 私は美しい広告宣伝の付いている商品を基本的に、買わない。消費者としてできれば、広告宣伝費や販売促進費を負担したくないからだ。言ってみれば、商品の機能に影響しないイメージ的なものはなるべく排除し、製造原価プラス最小限の販管費で売ってほしいのである。

 かといって、単に安い価格を望んでいるわけではない。良い商品なら高く売って当たり前。削減された広告宣伝費や販促費の分は、有能な従業員の昇給や製品改良・開発に充ててほしいのだ。

 現代社会では、財・サービスの供給が大幅に実需を超えている。故に、マーケティングという専門分野が生まれたわけだ。スーパーに行ってドレッシングを買おうと、数十種類もあって正直、私の場合はうんざりする。選択肢が多いのが善とされているが、私はそう思わない。選択にもコストがかかる。選択するには情報を仕入れなければならないからだ。

 そして美しいモデルを使って、美しいリゾートで美しい写真を撮り、それをイメージとして商品の差別化を図る。第三次産業そのものが実需とかけ離れた部分がますます増大する一方、第一次産業や第二次産業の労働力不足問題が深刻化する。この歪みをどう解消していくか。歴史がいずれ答えを見せてくれるだろう。

 美しい女性は、モデル職を辞め、農家で米作りでもしてくれれば、それこそ夢のような「明るい農村」が実現することであろう。夢を持たない私には、夢を語る資格はない。

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