連帯責任問われる、生産者の売り方と消費者の買い方

 日本企業の場合、「売り方を教えてくれ」というのが大半で、「買い方」に強い関心を示す企業は少ない。

 売りたいから、売れない。買いたいから、売れる。というのがいちばんシンプルな原点。アジアあたりの市場では、消費者が「それは、高い」というが、日本企業は「これは、品質がいい」とすれ違う。

 日本は、モノづくりの国だ。日本人の承認欲求は、品質が認められることにある。日本人は、未だに日本製の品質がいいという認識を引きずっているから、「発信」という言葉を使っている。「受信」意欲の有無や多寡に関係なく、一方的に発信し続ける。

 アジアでは、「日本迷信」がだんだん薄れている(そのうちは消えるかもしれない)。値段が高くて売れないから、日本企業は「富裕層」に目を付ける。しかし、日本製品のポジショニングは、世界的にみても、富裕層に設定されていない。日本企業は、海外金持ち相手の商売のノウハウをほとんど持ち合わせていない。

 では、本題に入ろう。

 私は、アジアのローエンド市場に興味があって、それらしき商売をしている日本企業に聞いてみたら、「うちは安くても品質を落としていない」と軒並みの回答が戻ってくる。

 安くて品質を落としていないというのは、ある種の非常識だ。高くて良い商品があってあたりまえだから。安くて良い商品となれば、コスト削減には限界がある。安いというのは、そのコストがどこかに転嫁されているにすぎない、ということだ。

 コストの転嫁先は、概ね2つ。1つは外部、サプライチェーンからの搾取。その一部が、中国のウイグル族の労働搾取など、最終的に他者(取引先・調達先など)による対人搾取に帰結する。もう1つは内部、自社社員からの搾取。いわゆるブラック企業的な部分だ。

 日本人を含む世間の一般人は、イデオロギー的に生産者による搾取を批判するが、ただ自分が消費者として搾取の恩恵を同時に享受していることを忘れがちだ。

 冒頭で述べたマーケティングと同じように、生産者の売り方消費者の買い方という2つの側面をみる必要がある。パースペクティブを調整すると、本質が見えてくる。その根源は、消費者による「安さ」の追求にある。消費者は常に安さだけを追求しても、なぜ安いかを問わないのだ。

 消費者の安価商品追求を善とし、生産者の他者搾取を悪とするならば、それはおかしい。本源的な問題に自分が絡んでいるから目を背けてはいけない。

 繰り返す。あなたも私も、ほとんどの人は、生産者と消費者という二重の身分をもっている。連帯責任を問われたところで、時には「同罪」判決を受けざるを得ないのだ。

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