マレーシア移住(49)~失敗の元凶、日本人の「謙虚さ」と議論忌避

<前回>

● 日本人の謙虚さ

 海外事業(に限らず)の失敗を繰り返すなか、日本人(企業)になぜ学習機能がないのか。結論から言おう。学習機能の作動を妨害する主因は、議論の不在であり、議論を妨害する主因は、謙虚という偽善である。

 謙虚を美徳とする日本人自身は、全く謙虚ではない。本物の謙虚とは「批判を受け入れる」ことだが、日本社会のいわゆる「謙虚さ」は、単に大人しい、自己主張しない、相手を批判しない、相手と議論しないといった上辺の「和」にすぎない。忖度もそもそも美徳の範疇である。

 私が企業経営上の意思決定や経営行為を直言で批判したところで、コンサル契約を解除されることは何度もあった。それならまだしも、中に弁護士や在外日本総領事館まで動員して私の発言を封じ込める事案もあった。記事を書くな、セミナーをやめるな、論文を発表するなと。

 いかなる「対事」の議論を直ちに「対人」の攻撃と読み替えるのは、日本人だ。その「議論」をめぐって考察したい。

●「議論」のタブー化

 「深く考える」ことと「議論」は双子である。深く考えても、議論しなければ、企業経営には何ら意味もなさない。

 「納得できない」「合点がいかない」「腑に落ちない」……。日本語の表現は実に多様である。英語の「disagree」は、「私はあなたの意見に同意しない、反対する」という「主体の客体に対する指向性」が非常に明確である。これに対して、日本語の表現はいずれも、客体指向がなく、自分の中で完結する「自己完結型」になっている。いくら納得できなくても、合点がいかなくても、腑に落ちなくても、それはあくまで自分の中の葛藤であり、相手の意思や行動に反対や阻止の意思を直接にぶつけるものではない。しかも、このような間接的な反対すら相手に表明しない(できない)のが日本人である。負の意思や感情を自分の中に抱え込む。

 日本人サラリーマンは一般的に、たとえ深く考えたとしても、会議などの場では本音をぶつけて議論することができない。議論を避けるために、根回しするわけだ。結局のところ、各方面の利害関係の調整になり、問題の本質に触れずに折衷案で折り合いをつけることが多い。

 そこから理不尽な結論が生まれても、腑に落ちないことがあっても、私的な場で愚痴をこぼしたり、酒場に持ち込むしかない。やけ酒を呷りながら、議論を展開し本音を仲間に打ち明け、似たような境遇にある者同士が傷の舐め合いをしたりする。

 私も外資企業に入社したばかりのときは、ロジックに長ける欧米系の外国人と議論したら、あっという間に撃沈されていた。彼たちは見事に三段論法を使いこなす。 普遍的な法則と個別の事実を挙げ、そこから結論を導き出すという演繹法には反論する余地がない。ただ面白いことに、議論はあくまでも議論であり、議論が終わると、連れ立ってパブに駆け込むことも珍しくない。日本人の場合、議論を仕掛けたら、すぐに攻撃と捉えられ対立が生まれる。

● 日本人には議論する力がないのか?

 一般論として、「日本人は議論が苦手だ」とよく言われる。理由としては、組織の協調を重んじる気質や自分の意見を述べるのが苦手な国民性が挙げられることが多い。この通説には概ね賛同だが、1つの疑問が残る。日本人は果たして技能レベルの議論力に欠けているのか。

 コンサルの現場で、非常に論理的な日本人経営幹部と議論を展開したことは一度や二度ではない。特に海外拠点の場合、現地の事情が日本国内と異なるため、阿吽の呼吸というわけにはいかない。明確な言葉や文書にする必要があり、議論が始まる。そこで抽出された要素や法則的な大前提とその企業の状況(個別の事実)を羅列し、演繹的に推論して結論を導き出す。その結論に双方が納得した時点で、提案も合意される。

 その過程を見ると、日本人だから論理的思考力が欠けているとか、そういうことは一切感じない。ときには現地コンサルタントの私よりも一歩二歩先行して結論を導き出す人もいる。ところが、そこから先で明暗が分かれる。現地拠点の改革案が日本本社に提出されると、必ずしも全数が通るとは限らない。本社の経営陣に否決される案件も一部出てくる。

 「なぜ?」。現地法人の社長に聞くと、「本社の方針です」と一言。いや、むしろ、本社の方針に沿った提案をしたはずだ。アプローチが「日本的ではない」、それが却下の理由だという。アプローチは現地の状況を考慮したもので、それだけにしっかりと議論して双方が納得したではないか。もう一度本社に掛け合うことはできないのか。

 「理屈は分かっていますが、すみません、今回の案件は本社、役員の意思で却下されています。これ以上の議論はもう勘弁してください。私も議論する立場にありません」。深々と頭を下げる現地法人の社長を見ると、私は胸が詰まる思いだ。

 議論する力がないわけではない。そもそも議論する権限を与えられていない、あるいは暗黙の圧力で議論の権限を自主規制せざるを得ないのだ。前例踏襲でない斬新な提案、あるいは「脱日本的な」提案であるが故に、本社から異端視され、議論にすら至らず潰された事案もあった。タテ型社会である日本の多くの組織は「議論」を受け入れる基盤を持ち合わせていないのである。

● 議論を拒否する

 海外日系企業向けのコンサル現場においても、「議論」を拒否される場面がある。拒否する主体は、現地法人のトップだったり、あるいは本社の上層部(担当役員など)だったりする。なかに露骨に「議論したくない」と明言される場面もある。

 現地法人のトップに議論を拒否された場合、私には「上訴」のチャンスがある。本社の上層部ないし社長、会長に行き、そこで「逆転勝訴」もあれば、「棄却」され、「敗訴維持」の場合もある。いずれ、これが「確定判決」となる。

 コンサルタントにお金を払って依頼するとは、外部の目線を取り入れて「議論」を重ね、会社にとって利益となる方向や方針を決めることである。「議論を拒否する」とはいささか異常な状況ではないかと思われる。論理的な議論の結果として、正しい結論が採択される。そこに価値が見出される。もちろん、私が間違った場合はお詫びして提案を撤回し、出直す。会社の経営者や幹部の皆様にも同じことがいえる。会社のためであるからだ。

 私は経営コンサルタントとして、顧客企業からフィーをいただいている以上、商売(単たる自身の個益)のために言うべきことを言わずに、結果ありきのいわゆる「既定方針」に迎合することは、職業倫理に反するものと考える。故にコンサル現場では、忌避することなく直言して意見を申し述べるようにしている。このような姿勢に多くの賛同をいただき、今日に至るまでの間、たくさんの案件を成功させてきたわけである。

 これらの成功は私の有能さではなく、ひとえに顧客企業の経営者・幹部の議論する勇気と議論する力のお蔭である。これをなくしていかなる合理的な方向性も施策も生まれなかっただろう。ここで改めて心から敬意を表し、感謝を申し上げる。

● 日本企業が議論を封殺する理由

 前例がないこと、あるいは日本的でないことを理由に制度改革の提案が否決され、しかもそれ以上の議論まで封印されたのはなぜだろうか。おそらく本社役員がリスクや「承認責任」を取りたくないからであろう。つまり、「前例がない、日本的でない」という理由は根拠が薄弱で到底議論に耐え得ない。議論を続けると、「承認責任回避」という真実が露呈してしまい、そこで問題の役員が芋づる式に出てくるので、都合が悪いわけだ。

 故に、日本企業では、このようなマズイ状況にならないために、最初から議論を封殺することが多い。

 今の日本は会社や組織だけでなく、社会においても、「対人型」(Who)でなく、「対事型」(What)の議論を理性的に展開できる土台が必要とされている。これが一種の無形社会インフラ、ソフトパワーとして定着すれば、日本はとても強い国になり、日本企業もとても強い企業になるだろう。

【読者コメント抜粋転載】

 ● 結論が出ると仕事が減るからです。論理的思考力が欠けているわけではない。もちろん、意見と人を同じにしてしまう「対人型」の悪い癖もある。しかし、意識すれば「対事型」で議論することはできる。一番大きな問題は「会議」と呼ばれる時間つぶし。たくさん会議をすると、忙しく仕事している気になるからです。価値を生むことに自分の存在意義を感じる人が増えないと、本当の議論はできませんね。

 ● 概ね同意します。確かに日本人も議論できない訳ではありませんが、自分の内側で考えることが主になっているので、伝わる言葉と論理、時に感情が表現できません。自分の中から涌き出たモヤモヤや違和感を言葉にすることが苦手なので、議論させてもらえないのだと思ってます(もちろん、言わせない雰囲気もありますが、)。議論をする前提となる「言葉」を磨いていないことも、議論ができない大きな理由の一つです。

 ● 概ね賛成です。海外現地では、「異論を唱えること」「相手が誰であれ持論をぶつけること」が、参加や関心を表す手段だと子供の頃から教育されてきていることもあり、反応が早いしわかりやすい。逆にたいした意見はなくても、何かしらいわねば、と少し論点のずれたコメントが来ることもある。日本人の多くは、「意見の内容」と「発言者の人格」を分けて議論する訓練を子供の頃からしてきていないので、異論を唱えられると自分自信が否定された錯覚に陥りやすい。私は相手の人格を否定せずに、私と同じ立ち位置からご自身の意見を客観視するために、「思考実験してみると、」とか「Let’s imagine,」などの枕詞をうまく使って工夫している。

 ● 加えて感じるのは、日本人が会議で議論しないというより、日本の場合は会議が議論する場ではなく決裁をしてもらう場(通す為の方便)の事が多いからですね。会議とは便利な言葉で、人が集まって話しているというだけですべて会議。

 ● 企業も国会も議論が出来ないですね。議論って、自分の意見にこだわらず、互いにより良い結論を追求する姿勢がなければ成立しません。最初から立場に明確な優劣があり、自分の意見を絶対に曲げないぞ、相手に論破されるのは恥だ、思っている人が多いので。

 ● 本当にこれ。会議=報告会。周りで「会議は不要論」を聞いた時、「何をバカなこと言ってんだ?」って思っていて、よくよく聞いたら報告会だった。自分の中ではずっと「会議は議論」が普通

 ● 議論をふっかけるなら説得できるくらい考えておいて欲しいのが本音です。表層的な部分の反論が多くて議論にならない。もう少し深く考える癖をつけないと、議論をふっかけても、議論が深まらない。役員はともかく、社長なら、良い意見には耳を貸すと思います。そのほうが社長は儲かりますから。面倒なのは社長未満の人たち。どうせ社長におもねるから考えもしないし、社長の言うことに、あえて反論しない。

 ● 議論は積み重ねるものというあるコメントから学びました。多方面から積み重ねて侃侃諤諤やればいいと思います。日本人は付和雷同の傾向があり、また議論に勝敗を持ち込んだり人格批判にいきがちなのは残念ですが、議論ができる国である点はいいと思います。

 ● 実際年齢が上の方に反論すると面倒くさい、それに対する回答じゃくて、なんでお前にそんなこと言われないけんのか、という感情をぶつけられる割合の方が高いし、面倒くさい。

 ● 日本人は議論をさせれば上手にできると思う。問題は収め方ではないか。上手に矛を収め、合意に達する技能が弱いと思う。

 ● 確かにこの記事も演繹的に書かれているが、「日本的でない」という理由で案が否決されるようなことが普遍的前提とは言えないように思う。私はいわゆる外資系に勤めた経験はないしステレオタイプな一般化は危険だが、上司や経営トップの絶対性というのはむしろ欧米企業のほうが強いのではないかという印象がある。東西を問わず、人治ではなく真にクリティカルな議論でドライブされている組織は実際どのくらいあるのだろう。結論も今となっては時代遅れというか少し表層的な感がある。トップが責任を取りたくないというより(それもあるだろうが)、トップを担いでいる部門や現場や前任者等々が変化を望まない、言ってみれば本人を含めて既得権益を食いあっている関係者全員がトップに責任を取る機会を許さない、という構造的なものがあるのではないか。

 ● 「日本人の場合、議論を仕掛けたら、すぐに攻撃と捉えられ対立が生まれる。」あるなー。ほんまシンドなります。楽しく議論したいのにイキナリ交戦モード。部下達の結論を簡単に潰すのは「前例好き」と「日本的発想好き」によるものだそーだが、上席を立てろ!上席と意見が違うと採用されないのは常。本音の意見を聴きたい、改善やイノベーションの要求、愛社精神、支離滅裂だと思います。また、マネージャーや上位マネージャーになることを「偉くなる」と表現する悪しき日本的発想。自由にやれ!だけど、結果を出せ!であれば分かるのだが。

 ● 今の職場では議論をよくします。議論をした上での至る結論なので、納得はします。前の職場では、会議は議論ではなく、役員から理不尽なお叱りを受けるための場でしたね。よくリーダーがブチ切れていたのを思い出します。詳しくは書けませんが、だいぶ滅茶苦茶なオーダーでしたので。結局、役員の思惑を刷り込むだけの場であって、そこに意見のやり取りはあってはならないのです。ほんと転職して良かったですよ。

 ● これ、面白い。日本人の場合、議論を仕掛けたら、すぐに攻撃と捉えられ対立が生まれる。そりゃそうだよ。日本のオッサンビジネスマンの大部分は「議論の場」って、「相手を打ち負かすアピールの場」としか考えてないからねー。だから、「議論」というカッコいい名前の「不毛な戦いの場」で、意味がない「攻撃」や「防御」をしないように「下打ち合わせ」や「調整」が生まれるわけだ。で、昔から僕は入念に「調整」する。調整がえげつなさ過ぎて嫌われるけど。

 ● 『「対人型」(Who)でなく、「対事型」(What)の議論を理性的に展開できる土台が必要とされている。これが一種の無形社会インフラ、ソフトパワーとして定着すれば、日本はとても強い国になり、日本企業もとても強い企業になるだろう。』

 ● 意見が属人的だから。議論の主目的が価値を生むことでは無く勝ち負けを問うことにすり替わるから。上司が部下に論破されても会社として利益が出れば良い、という発想にはならないのだと思います。日系、外資の違いではなくて、上司の器の大きさの違い、体面やメンツが価値よりも重視されるかどうか、の違いのような気がしますが。

 ● 日本人の場合、議論を仕掛けたら、すぐに攻撃と捉えられ対立が生まれる。>議論する力がないわけではない。そもそも議論する権限を与えられていない、あるいは暗黙の圧力で議論の権限を自主規制せざるを得ないのだ。前例踏襲でない斬新な提案、あるいは「脱日本的な」提案であるが故に、本社から異端視され、議論にすら至らず潰された事案もあった。タテ型社会である日本の多くの組織は「議論」を受け入れる基盤を持ち合わせていないのである。場が凍り付く発言をする私も異端児扱いです。議論する前から会社のフレームワークが確固として決まっていて、「ペリフェラルな領域」からでさえ議論を跳躍させることが許されない。だから、いつまで立っても同じところをクルクル回っている訳です。また、何かと『人』に関連させる癖を直して欲しいですね。マンパワーで頑張り過ぎる。属人的な解決が嫌いな私には取り付く島もない。貴方がいなくなったらどうするのかも考えてよと言いたくなる。『事』に焦点をあてて議論ができるようなマネージャーが必要不可欠ですね。

 ● 日本人は欧米と比べると母性社会だなと思う。判断の基準が合理的か、とか、生産性があるか、とか、win-winの関係になってるか、とかじゃなくて、だいたいが好き嫌いの感情で判断してると思う。この人の言ってることだから正しい、とか、こいつが言ってるから間違い、みたいな。そこらへんは欧米と感情の使い方が逆と思う。日本人は感情を隠してるわりには判断の基準が感情で、向こうは感情を表に出すけど判断は論理みたいな。あと最初っから答えが決まってるから論理が自分の意見を肯定化するためだけの論理になっていて、ベストな答えを出すための論理ではない。ここらへんは受験勉強の弊害かなと思う。幸せになるための勉強、サバイバル能力を身につけるための勉強、答えを見つけるための勉強ではなくて、全ては答えが決まっていて記憶するだけで、受験勉強のための勉強、就活のための勉強になっている。

 ● YES、ディスカッションはとても大切。恐れず 率直に 思っている事を お互いに傷つくひとは練習を率直に物事を伝え改善へ向けて、互いに意志の擦り合わせ、対等な議論できる関係はどんな立場でもとても必要なこと。

 ● 議論、封殺しますよね。いま勤めている私の会社はそんなことないですけど、封殺する組織はとことん封殺するし、イノベーティブな人は一斉に袋叩きにされます。

 ● 和をもって貴しとなす。【方法1】思っていることがあったとしても、お互いに言わない。ことで和を保とうとする。→ゴールが明らかな時代では効率がよいが、ゴールが不明な時代には不向き。【方法2】思っていることがあれば、お互いに思っていることを丁寧に言うことで和を保とうとする。→議論するだけ効率は落ちるが、議論による相乗効果も期待できる。

 ● しばしば思うんですが、承諾を得るための会議をしない外資系ではどうやって責任者の承認を得てるんですかね?まさか責任者不在の会議を延々やって、結論を覆せないようにしてから責任者に報告している?んなわけないですよね〜

 ● ねー、目上の人に議論ふっかけると大体(生意気な…)みたいな目で見られて「敬意を払え」と言われることが多いんだよねー。敬意はらってるから議題も選んでるつもりなんだけど、その発言で敬意もなくなるよね。

 ● そもそも何故報告の会議が多くなってしまうのか?について会議しませんか?

 ● 日本は小さい頃から議論する場面が少ないです。小学校の時の決め事は大体多数決ですぐに決まってしまう。少数派が正しいって場合があるにもかかわらず。あと、これは以前堀江貴文さんがどこかで仰っていましたが話し合いの中で反対意見を言うと言われた側は言った側が自分を嫌っているのではないかというように見られるので、そのへんも関係してると思います。

 ● 意味の無い議論で意思決定が起きるから、事前に意味のある根回し等々しないといけないわけですかね?最近根回しに意味ってあるなぁとか思ってきてましたけど、本質的には議論が出来ないから意味があるわけできちんと意味のある議論ができれば根回しはそこまでいらないかもしれません。まぁ社会上部では根回し、忖度も不可欠なのかもしれませんが…

 ● 議論メシでしている議論とまったく種類が違う。人によって言葉の定義がちがう。言葉ってその場の空気感や雰囲気が、人に伝わるんだろうな。

 ● 同意ですけど、ああ、こういった日本人ってつまらない。意見する部下は上司に叩かれますからね。

 ● 何だろな。案件の大小もあるけど、承認してくれないから進まない、だと他責な気がするし、もう少し進んで考えれば、承認貰わずに自分なり実行してみて、成果を示してから、こんな方法もあるので承認貰えますか?の方が手っ取り早い気がする。議論を封殺する理由=承認責任回避。

 ● 確かにこういうことはよくあるけど、あとでいろいろ聞いてみると自分が浅はかだったってことが多い。それでも自分が正しいと信じるに足る理由があるなら、訴え続ければなんかうまくいく。関係ないけど、信頼関係ができてから議論っていう順番があることに最近気づいた。

 ● あー、わかる~これ。結局、上の一言で決まっちゃうんですよね。こういう場に居合わせると、もう、「考えるだけ無駄、早く答えを教えてください」って気持ちになってしまいます。そういう風土は昔の人ほど持っているイメージです。せめて、理由くらいは知りたいです…

 ● 回しとか本当キライ。会議で自分の意見を発言できないとか意味わからん。発言できないならしなくても良いけど、だったら後で文句言うな、と。それで良いじゃん。なんで会議で発言できないヒトに阿る必要があるのか。それが分からない。

● たしかに!議論はスキルの問題以前に権限のない者には不要という悲しさ。全てを見ていても黙っていなければならない家政婦のようなサラリーマン。

 ● 意見しても、でもこうだからああだからとまず否定してくる上長多い。会議とかでも、始める前からもう方針は決まっていて出来レースがほとんど。その場で議論して決めるのではなく、こうだから、とただ伝えられるだけ。反対意見や改善案出しても、もう決まってるとかルールだからとか、議論にならない会議が多い。思考停止怖い。

 ● そうなんてすよね。上が駄目と言ったらダメ。これは人が集まる組織という集団では当たり前たと思っていましたが、日本固有の特徴なのでしょうか?まさに「お話にならない」ですね。

 ● 本日、会議で自己発信できなかった。提言してみて上位レイヤーや相対者の感触を見たかった、けどできなかった。超反省。

 ● 偉い人いる会議で決めないと怒られるし、ダダでさえ偉い人はスケジュール取れないし、議論なんてできる時間無い。

 ● 新社会人から見ると悲しくなるコメントが多いです。会議実習みたいな事をしている意味は無いのでしょうか。

 ● 客観視すれば納得なんだけど、当事者になるとなかなか…。これを変えていかないと日本企業の競争力は弱まる一方よね。まず自らを高める!

 ● 理由は日本人が日本語を使っているからだそうです。日本医科歯科大の先生の研究論文で、たしか5歳ぐらいまでだったと思いますが、日本語を聞き喋る生活をしながら育った人は世界的ににも稀で特有のバイアスが脳にかかるそうです。世界的にも稀な母音発音を主体とする日本国を使う民族である私達は言語脳である左脳に偏重した働きが強くなるそうです。左脳は空間や団体や組織に融和しようとすると働きが強く、逆に右脳は個人の主張が強く働く特性があります。従って、私達が忖度したりしん酌したり根回ししたりするのは日本語を使って育った人の自然現象だということです。かと言って5歳以降に外国語の生活に慣れ親しんでもそのバイアスは変わらないことのほうが多いそうです。これは、肌の色が何色であろうが日本語で育ったら皆同じです。つまり、人種や生活文化の問題では無く、言語の問題であるとすれば、日本人が日本語を使い続ける限り、この特性は変わらないと思います。ちなみに世界中で母音言語を使うのは日本国とポリネシア語だけです。あとは全部、子音言語だそうです。

 ● 必要以上に人に気を使うのが日本人。内容でなく誰が言ったかが重視されるのにはうんざりですが。

 ● 企業の”中の人”にとって、最優先事項は、自分が食い逃げに成功するまで寄生先を失わない事。

 ● 過程の話が苦手で、過去や今の話を評論するのが得意なだけ。そして、西洋思考の議論と東洋思考の議論を一緒にするとか。この記事不思議しかない。

 ● 古い言葉ですが、イエスマンばっかりで困ります。

 ● 耳が痛い話ですが、正直、担当者のレベルに依るところもあるような気もします。議論を持ちかけた結果、それを攻撃として捉えられてしまうと、もうこちらとして呆れてモノも言えなくなりますね。”前例踏襲でない斬新な提案、あるいは「脱日本的な」提案であるが故に、本社から異端視され、議論にすら至らず潰された事案もあった。タテ型社会である日本の多くの組織は「議論」を受け入れる基盤を持ち合わせていないのである。”

<次回>

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