ポスト真実(Post-Truth)の時代とは、美しい嘘が醜い真実に勝る時代である。「美しい嘘が醜い真実に勝る」という真実を、美醜や善悪で判断する意味がすでになくなっている。
● 嘘が人類繁栄の元
ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』では、「人類は、現実に存在しない虚構(フィクション)を信じ、語る能力によって、多くの人が協力できるようになり、人類の繁栄をもたらした」という結論が提示されている。乱暴に言い換えれば、「嘘が人類繁栄の元だ」ということになる。
それは、決して嘘ではない。人類と動物の唯一の本質的な違いは、動物が嘘をつかないことだ。裏返せば、嘘をつくことは人類だけの能力であり、この能力によって人類社会が地球上唯一無二の文明を築いた。その象徴的な存在は、国家という共同体だ。ここからは著者と異なる視点から考察を展開したい。
国家を支配するうえで、もっとも難しいことがある。それは、少数の支配者と大多数の被支配者の社会的関係、そして有効な支配システムをどう作るかという課題だ。
● 「民主主義」という美しい嘘
たった1つの真実は、大多数の凡庸な大衆を支配するのは、一握りの優秀なエリートでなければならないことだ。しかし、この真実はそのまま開示することができない。少なくとも明示・明言することができない。支配者層には都合がよくないからだ。その真実を隠蔽するために、1つの美しい嘘が作られた。それは「国民のための国家」である。どんな国でもそう謳っている。
嘘を嘘で塗り固めるしかないので、ここからはすべてが嘘の連鎖になる。「国民のための国家」という嘘を具現化するにあたって、「民主主義」という嘘がもっとも美しい。世界一の独裁国家北朝鮮でさえも、「民主主義」の名を国号に入れている。他の権威主義国家もほぼ同様で、どこも「民主」と謳っている。
この世の中、民主主義を堂々と否定する者は直ちに叩かれる。民主主義は最大級のポリコレであるからだ。民主主義は単なる虚構であるという真実が明らかになったとしても、大方の人は目を覆ってこの真実と向き合うことができない。なぜなら、突き詰めると、民主主義は大衆の愚かさを曝け出す馬鹿発見器だからだ。
美しい嘘が醜い真実に勝る、とはそういうことだ。