<雑論>私はなぜ「侵略」を批判しないのか / SNSの活用法 / SNSにおける対話のすれ違い / 日本を壊すのは「日本すごい」と叫び続ける人々である / 外国人留学生優遇反対 / 石破下ろしの失速

● 私はなぜ「侵略」を批判しないのか

 侵略そのものを私は一概に批判しない。

 歴史を振り返れば、アングロ・サクソンの繁栄もまた侵略を原点として築かれてきた。にもかかわらず、今日の彼らは侵略を糾弾する立場に立ち、あたかも道徳的高所から世界を裁こうとしている。

 だが、侵略を絶対悪と断罪する倫理的高所に、私自身は立てない。問われるべきは「侵略の是非」そのものではなく、「侵略の手法」である。大量虐殺や無差別破壊を伴う侵略は非効率かつ残酷であり、自己や未来をも食い潰す愚行である。他方、交易や統治制度を整備し、ある種の秩序や発展をもたらす侵略は、歴史的に見れば新しい文明の生成契機ともなり得た。

 要するに、侵略は善悪の二項対立に還元できる問題ではない。倫理を装った一方的糾弾よりも、冷徹に「どのような侵略であったか」を問う視座こそ必要である。歴史において重要なのは、侵略そのものの否認ではなく、その具体的手法と帰結の評価なのである。

 太平洋戦争で散華した英霊の中には、無謀な作戦計画や大本営の虚偽報告の犠牲者が含まれるだけでなく、意図的に命を差し出させられた者も多い。神風特攻から生還した兵士への虐待、戦艦大和に託された自殺的出撃、極めつけは降伏決断の遅延である。日本は自国民の命を、あまりに粗末に扱った。いや、粗末というより、国家が自国民を「間接的に殺害した」と言うべきであろう。

 敵国民に対する虐殺は非人道的所業である。だが、自国民を犠牲にしたこの国家の所為は、人間の動物的本能――自己保存や仲間保護の本能――すら裏切る、非本能的な倒錯行為であった。

 ゆえに終戦記念日の反省は、単に「侵略反省」「加害の謝罪」といった外向きのものに矮小化されるべきではない。むしろ第一に向けられるべきは、日本国民自身である。国家の美辞麗句に騙され、欺瞞に従い、自国民の命が国家によって消耗品のように扱われたという事実に、である。

● SNSの活用法

 私はSNSを、主に二つの明確な目的に基づいて無駄なく活用している。

 第一に、レポートや論考を構築する際の断片的情報の整理・収集の場としてである。SNSは、流通する言葉や感情の粒子を採集し、それを一時的に保管・分類する情報部品の倉庫として機能している。いわば、後の知的再構成に向けた素材調達の前線基地である。

 第二に、SNSを複数の学問的観点からの実験場として観察・活用している点である。特に以下の領域において、SNSは生きた教材として無尽蔵の観察素材を提供してくれる。

 ⚫︎ 行動心理学:報酬刺激による条件反射的行動
 ⚫︎ 社会心理学:同調圧力、炎上、群衆性の顕在化
 ⚫︎ 認知心理学:情報過多による認知バイアス、選択的注意
 ⚫︎ 進化心理学:承認欲求、敵味方の二項対立、本能的なステータス競争
 ⚫︎ 政治学とポピュリズム研究:情動動員、敵対構造の言説化、群衆支配
 ⚫︎ マーケティング理論:感情駆動型消費、自己ブランディング、可視的欲望操作
 ⚫︎ メディア論とアルゴリズム倫理:表示順の恣意性、情報エコーチェンバー化

 SNSは、もはや単なる通信手段ではない。そこには、人間の知性・欲望・所属意識・道徳・言語・権力構造が複雑に絡み合い、多層的かつ動的に存在している。その構造を的確に理解し、分析するためには、複数の学問を横断的に統合する知的作業が不可欠である。

 SNSを通して見えるのは、他者の言動だけではない。それに対する自己の感情・判断・反応といった内面的鏡像でもある。SNSとは、現代人にとって、他者理解と自己省察とが同時に進行するデジタルな鏡像空間にほかならない。

● SNSにおける対話のすれ違い

 「何を言いたいのか」「私の投稿とどんな関係があるのか」――。私はよく、SNSにおけるコメント書き込みに対して苛立ちを覚える。投稿の文意や論点を読み解く姿勢もなく、ただ自分の知っていること、言いたいことを投げ込んでくるだけ。

 SNSにおけるコメントの多くは、投稿者の意図や文脈を正確に読み取った上での建設的な応答ではなく、感覚的・情緒的な即応に終始しているのが現実である。投稿の背後にある論旨や構造、文脈を理解した上で反応するためには、高度な読解力や思考力が求められるが、それを有する者はごく一部にすぎない。

 大多数の利用者は、投稿内の一部の表現やキーワードといった「わかりやすい符号」に反応し、それを自らの乏しい経験や知識と強引に結びつけて、浅薄かつしばしば論理的に飛躍したコメントを即座に書き込む。これらの反応は、知的対話を目的としたものではなく、単に「自分も知っている」「自分も参加したい」という自己表現と承認欲求の発露にすぎない。

 このような現象の背景には、「即応できること」が知的であるかのような誤った認識がある。熟考を必要とする投稿に対して、即座に的確なコメントを返すには、それ相応の訓練と知性が求められるが、それを理解しないままに軽々とコメントする風潮が、SNS全体の言論水準を引き下げている。

 さらに、このような状況は投稿者側にも影響を及ぼす。内容の深い投稿ほど、表層的な反応や的外れなコメントが集中し、投稿者が失望し、やがて質の高い発信を控えるようになる。結果として、SNS全体が「浅く速い」コンテンツに傾斜し、知的衰退のスパイラルに陥っていくのである。

 ただし、すべての即応が無価値というわけではない。優れた読解力と思考力を有する者は、短時間であっても投稿の本質を見抜き、的確な質問や反論を返すことができる。そのような即応こそが、SNS上で知的対話を成立させる希望であり、また少数ではあるが、実際に存在している。

 このような現状を認識することが、SNSという場を「感情の垂れ流し」から「思考の交差点」へと変える第一歩となる。投稿者にとっても、読者にとっても、深く読む力と慎重に反応する姿勢が今こそ問われているのである。

 無知に知性をぶつけるのは、序の口力士、時には番付外と横綱を同じ土俵に上げるようなものである。土俵に立つことは許されても、戦う資格があるとは限らない。技も型も知らぬ者が、ただ声の大きさと感情の突進力だけで頭からぶつかってくる姿は、もはや相撲ではなく、知性に対する興奮したイノシシの突撃である。

 真の問題は、横綱が怒っていることではない。序の口や番付外が自分を横綱だと思い込んでいることである。

 「理」によってつながる、SNSという灯。SNSとは、単なる情報発信の場ではない。思想や言葉に引き寄せられるように、共鳴する人々が集まり、思わぬ対話が生まれる場である。同調や社交辞令ではなく、それぞれが自分の頭で考え、自分の言葉で語り合う。その繰り返しの中で、互いの地平が少しずつ広がっていく。

 類は友を呼ぶ――この言葉の重みを、日々のやりとりの中で実感する。たとえ立場や表現が異なっても、誠実に向き合う者どうしが出会い、ぶつかり、学び合う。そこにこそ、SNSが本当に意味を持つ瞬間がある。思想とは孤独な営みであると同時に、同志を引き寄せる灯でもある。

 ただし、真の価値は「情」の共鳴では終わらない。「理」の共鳴にこそ、対話の核心がある。感情の共有は温もりを生むが、論理と思考による接続は、知性の深化と視座の拡張をもたらす。共鳴の深度は、感情の強さではなく、思考の質によって測られるのである。

 「理」によってつながる対話は、慰めや賛同を超えて、互いを高め合う。そこには、思想が灯し、言葉が導く、静かで力強い連帯がある。それこそが、SNSという現代の闇に灯る、知の火である。

● 日本を壊すのは「日本すごい」と叫び続ける人々である

 「反日だ、日本が嫌いなら出て行け」――それが似非愛国者たちの定番の吠え文句。だが、いざ出て行けば、「海外にいる奴が日本を批判するな」と来る。要するに、出ていようが居ようが、何も言うな、と。これはもはや愛国ではない。忠誠の強要、沈黙の命令、思考停止の礼賛。ここまで来ると、もはや民主国家の皮をかぶった幼稚な全体主義である。

 「日本すごい!」「日本は世界に誇る国!」――はいはい、聞き飽きた。本当にそれで日本が強くなるのなら、私は朝から晩まで「日本賞賛の念仏」を唱えて差し上げる。だけど、残念ながら現実は賞賛では動かない。この杜撰で制度疲労を起こした国家、この無責任が蔓延した社会、それでもなお「日本すごい」と叫び続けるその姿は、もはや滑稽を通り越して害悪である。

 真の愛国とは、国の短所と直視し、弱点を認識し、革新の意志を持つことだ。「なぜ衰退したのか」「何が機能していないのか」を問うことこそが、国を生かし直す知性と覚悟であり、それが国家の品格である。それをせず、ただ賛美しろ、文句言うな、黙れ、出て行け――あなたが守っているのは「日本」ではない。思考を拒絶するナルシシズムという檻だ。

 「批判するな」と叫ぶその声が、この国から言葉と希望を最も早く奪っていくことに、どうか気づいてほしい。いや、もはや気づかなくてもいい。あなたの無思考と無理解のその先に、沈みゆく「美しい国」の末路が待っている。

● 外国人留学生優遇反対

 外国人留学生優遇反対。

 ――そう叫ぶ似非保守は、大学の経営構造も人口統計も理解できないくせに、「俺の税金が〜」と鼻息を荒くする、数字と現実にアレルギー反応を起こす知的難民である。少子化で18歳人口が半減し、特に地方大学が留学生で命綱をつないでいる事実を前にしても、「日本人だけでやれ」と胸を張る姿は、もはや滑稽を通り越して悲劇的である。

 彼らの頭の中では、大学は愛国心で定員が埋まり、経営は精神論で黒字化し、研究は竹槍精神で世界一になるらしい。現実には、留学生を排除すれば研究室は空っぽになり、街のアパートは空室だらけになり、食堂は閑古鳥が鳴く――それでも彼らは「これが日本の誇りだ」と言い張る。

 風刺画にすれば、沈没寸前の船の甲板で「外国製の救命ボートは禁止!」と書いた看板を立て、海水をすすりながら「純国産の水だ!」と感涙にむせぶ姿がふさわしい。

 まさに高田馬場の早稲田周辺の中国人街化は、その現実を如実に物語る好例である。かつて「日本の私学の雄」「知の牙城」と称された早稲田でさえ、日本人学生だけでは経営と研究の維持が困難になり、今や中国人留学生がキャンパスと周辺経済を支えている。駅前の中華食材店、火鍋屋、麺館、コピーショップに至るまで、留学生需要で成り立っており、その経済圏は早稲田の学生街そのものを再編している。

 これを見てなお「外国人優遇反対」を唱える似非保守は、「早稲田ですら外国人に頼らないと回らない」という事実に目を背け、「いや、きっと日本人だけで満員だ!」という脳内ファンタジーに浸る。現実には、留学生が抜ければ研究室はガラガラになり、商店街はシャッター通り化し、大学の財務諸表は真っ赤に染まる。にもかかわらず彼らは、「外国の影響を受けない純潔な学府こそ理想だ!」と叫び続ける。

 それは、酸素ボンベを外して「真の自給自足呼吸」を誇示する深海潜水のようなもので、結末は想像に難くない。幸い、このようなアホ連中にかつて奨学金を支給しなかったのはせいぜいの救いだ。

● 石破下ろしの失速

 予測通り、石破下ろしは失速し始めている。石破短命政権という見立ては、完全に外れている。高市は麻生の指示に従って入閣固辞するのは大きな間違い。安倍残党は崩壊する。

 メディアが石破降板シナリオ描きに熱中してきたが、AIが逆に石破続投が確定した場合のメディアシナリオを描いてみた――。

 石破続投が確定すれば、安倍晋三を讃え続けてきた言論人とメディアは、その存立基盤を根底から揺さぶられることになる。安倍待望論の幻想は完全に消え、彼らは新たな権力にどう向き合うかという岐路に立たされるであろう。

 まず、新聞・テレビといった商業メディアは、経営上の合理性から石破政権への接近を余儀なくされる。産経新聞も、読売新聞も、やがて紙面は「石破時代」の現実に合わせて修正されるであろう。商業的存続を優先する限り、転向は避けられないのである。

 これに対し、論壇や個人論客は、分岐を迫られる。櫻井よしこは「真の保守」を自認し、石破を「保守に非ず」と断じるだろうが、それは影響力の孤立化を意味する。百田尚樹は過激な安倍礼賛を継続し、ネット右翼の拍手を受けつつも、主流からは切り離されてゆくであろう。山口敬之に至っては、安倍本人の庇護を失ったことで完全に商品価値を喪失し、地下論壇で信者的フォロワーを相手に細々と生き残るほか道はない。花田紀凱は編集者として商業的存続を最優先する立場にあり、「月刊Hanada」が石破特集を打つか否かが分水嶺となる。

 結局のところ、安倍礼賛言論は、転向派と孤立派に分裂する。前者は石破を「安倍の遺志を継ぐ者」と位置づける論理で自己正当化を図り、後者は「正統保守」の看板を掲げながら影響力を縮小させていく。長期的に見れば、転向派は主流に吸収され、孤立派は過激化して泡沫化する。

 石破続投はすなわち、政界における「安倍残党の終焉」だけではなく、言論界における「安倍礼賛残党の崩壊」も意味するのである。

 もし総裁選に突入すれば、石破氏が「安倍派のカネ問題」を一気に曝け出す。これは党内にとって核爆弾に等しい脅しである。石破下ろしを仕掛ける側は、石破が総裁の座を狙うこと自体より、この「報復カード」を恐れている。

 なぜなら、総裁選は公開討論や記者会見の連続であり、党内の密室論理では隠しきれない。石破が腹を括れば、「政治とカネ」を正面から切り裂き、全国民の前に安倍派の暗部をさらす舞台が整ってしまう。

 つまり、石破を総裁選に出すこと自体が「パンドラの箱 」を開ける行為であり、出した瞬間に派閥の膿が垂れ流されるのだ。だからこそ、安倍派にとっては「石破下ろし」ではなく「石破封じ」が至上命題になる。出させてはいけない、選挙に立たせてはいけない。それが彼らの本音であり、もし立たせてしまえば、自民党全体が炎上しかねない。

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