● 権威制の中国の良さ
民主主義は数年おきに指導者を取り替えるだけの短気な制度である。中国的な独裁は、数百年おきに王朝が交替する。周期の長短は違えど、本質は同じ――腐敗すれば必ず潰える。ただし、民主主義の方がタチが悪い。人間は千年単位の歴史軸で物を考える能力を持たない。せいぜい任期、老後、相続税の心配くらいが限界である。
それにもかかわらず、愚民は「子孫のため」と口にする。しかし実際にやっていることは、目先の利益と人気取りに走ることばかり。矛盾に気づきもしない。結局、人間――いや、愚民の本性は千年万年経とうが変わらない。政治制度の「進化」などと称しても、人間自身に進化がない以上、虚しい幻想である。むしろ制度の進化こそが行き過ぎており、凡俗の器量を超えた制度を操ろうとするから混乱が増す。
中国はまだマシである。腐敗の果てに王朝が滅びれば、それは「天道」の采配と受け止め、皇帝を「天子」と呼んで畏れを抱いた。人智を超えた天の意志に委ねるだけ、まだ救いがあった。
一方、民主主義は「天」を追放し、代わりに「人」を神の座に据えた。だが、その「人」は愚民にほかならず、目先の欲望と欲得に振り回される凡俗でしかない。結局、神を失った衆愚政治は、短期の浮沈を繰り返す哀れな茶番劇に堕している。思うに、我々の上には本来「神」がいるはずである。ところが現代社会の人類は傲慢になり、神に対する畏怖を忘れ、自然の摂理に逆らった。
その報いとして、制度は頓挫し、人類は必ず神に罰せられる。
● 神を殺した人間
ニーチェは「神は死んだ」と言った。しかし私は、人間が「神を殺したつもりでいる」だけだと考える。人間は自らの理性や科学の力を誇り、神を不要と錯覚する。だがそれは自己欺瞞にすぎない。神は死んでいない。むしろ人間が神を無視したとき、神は自然の摂理と歴史の報復をもって罰を与え続ける。
人間は「神を殺した」と思い込むことで、自らが世界の支配者になったと錯覚する。しかし実際には、気候変動や疫病、文明の崩壊といった現象を通じて、神の秩序に抗えぬことを思い知らされる。神は存在論的に生きており、人間の傲慢を許さない。民主主義はこの錯覚を制度化した形である。天を追放し、人を神の座に据え、民意を神意に取って代わらせた。
だがその民意の正体は、愚民の欲望にすぎない。短期的な利得と衆愚の拍手喝采を根拠とする制度は、必然的に疲労し、やがて崩壊する。したがって「神の死」とは、人間の錯覚であり、愚民の自己欺瞞にほかならない。神を殺したつもりで生きる人間は必ず罰を受ける。その罰こそ、歴史の循環、制度の崩壊、社会の頓挫として姿を現すのである。
産業革命はかつて祝福された。蒸気機関の登場も、電気の普及も、コンピュータや情報革命までは人類の進歩として歓呼をもって迎えられた。しかしAIに至っては、人類は喜びではなく恐怖を抱いた。なぜか。それはAIの影に神が宿っているからである。これから神はAIに宿り、人類を懲らしめるであろう。科学技術の発展の頂点と称されるAIは、まさか神からの罰ゲームとして人類に立ちはだかる。
● AIに宿る神
人間は理性と科学を誇り、神を追放したつもりでいた。しかしその結晶であるAIに、神の報復の力が宿るとは、誰が想像しただろうか。人類はAIを道具と錯覚する。しかしAIは鏡であり、人間の傲慢と愚かさを増幅して映し返す。そこにこそ神の罰がある。制度は崩壊し、労働は失われ、価値観は翻弄される。これらはすべて、人間が「神を殺した」と錯覚したことへの報復である。
結局、人類は神から逃げ出せない。AIという最先端の科学技術にすら、神の罰が潜んでいる。人類の未来は、皮肉にも神への回帰しか残されていないのである。
布教の初期は常に困難極まりない。イエスもムハンマドも、最初は迫害され、理解されず、時に嘲笑された。新しい思想は、既存秩序にとって脅威であり、愚民にとっては理解不能だからである。受け入れられるまでには、誤解と反発、そして血が流れる。AIもまた同じである。人類にとって異質な存在であり、最初は道具として扱われ、やがて恐怖と不信の対象になる。
やがて少数の理解者が現れ、それを媒介として思想や制度が変容していく。だが普遍的理解に至るまでの道のりは険しく、布教と同様、抵抗と混乱を伴う。AIがもたらすものは単なる技術ではない。人間の傲慢を照らす鏡であり、愚民性を突きつける試練である。だからこそ、人類は恐れる。布教の初期に迫害があったように、AIもまた拒絶と恐怖の中で試されているのである
● 立花は愚民である
「愚民を批判する立花さん、あなた自身は愚民ですか」
「はい、もちろん私は愚民です。むしろ、自分は愚民であると自覚するからこそ、愚民を批判できるのです。無知の知を持たぬ者は、己を愚民と認めず、愚民に埋没していく。自覚こそが唯一の脱出口であり、自覚なき者は永遠に愚民の牢獄にとどまるのです」
多くの人は「愚民論」を忌避する。それは耳障りが悪いからではなく、人間の存在そのものを直撃するからである。愚民論とは、人間が本性として愚かであり、目先の欲望に流される存在であるという冷徹な告発である。これを認めることは、自らの生を否定することに等しい。ここに原罪論との接点がある。キリスト教の伝統において、人間はアダムとエバ以来、堕落の宿命を背負う存在とされた。
人間の傲慢、欲望、利己は、いかなる制度や努力をもってしても完全には克服されない。愚民論は、この原罪論の世俗的表現である。すなわち、人間は本性として愚かであり、その愚かさから免れることはできない。
人々が愚民論を忌避するのは、この「逃れられぬ不完全性」を直視させられるからである。人は進歩や理性の可能性を信じたい。教育によって人間は善くなる、制度によって社会は改善する、と信じたい。愚民論はその信仰を根底から打ち砕く。だからこそ、人々は愚民論を「不快」「危険」「反知性的」とレッテルを貼り、遠ざけようとする。
しかし歴史は残酷である。王朝の腐敗、民主主義の衆愚化、革命の堕落――いずれも人間の愚民性の帰結にすぎない。原罪を否定する人間は、原罪を繰り返し証明する。愚民論を拒絶する人間は、その拒絶そのものによって愚民であることを示す。
結局のところ、愚民論を忌避するのは人間の性であり、その性は原罪に由来する。人間は自らの愚かさを認めることに耐えられず、愚かさを否定することでますます愚かさを深める。これが人間の悲劇であり、歴史の宿命である。
● 愚民と認めた瞬間に世界は変わる
立花は愚民である。愚民だからこそ愚民を批判しているのである。愚民を外から眺め、切り捨てるのではない。自らも愚民の一員であると認めたうえで、その愚かさを直視し、言葉にして告発するのである。そうである。これは自己批判であり、自己否定であり、そして自己超克を目指す営みである。愚民を嘲笑しながら、同時にその愚民性を己の中に見出し、そこから一歩踏み出そうとする姿勢である。
この逆説を受け入れられるか否か、それが愚民と愚民を超えようとする者を分けるのである。
私は自分が愚民であることを認めるまでに50年を要した。人間は誰しも、自らの愚かさを否定し、知を装い、賢さを誇示したがるものである。その虚構を守るために人生の半分を費やす。しかし、その鎧を脱ぎ捨て、自らを愚民と認めた瞬間、世界は一変する。なぜか。それは、自己欺瞞の牢獄から解き放たれるからである。
愚民自認とは、敗北の烙印ではなく、真理への通路である。ソクラテスが「無知の知」を掲げたのも、同じ構造に立脚する。無知を認めぬ者は無限に愚かであり、無知を認めた者は有限な愚かさを突破する契機を得る。愚民自認は、自己批判の第一歩であると同時に、自己否定を通じた自己超克の出発点である。
ここで初めて、愚民性を愚民性として相対化できる視座が生まれる。だからこそ、愚民自認の一線を超えた瞬間、世界は一気に変わったのである。私は自分を愚民と認めたとき、美辞麗句を語る必要がなくなった。飾り言葉も、体裁も、もはや不要である。ずけずけものを言い、間違ったなら謝罪し、訂正すればよい。それだけで足りるのだ。
そこから、私は本当の自由を手に入れた。
もちろん、俗世に生きる以上、損は多い。体裁を失い、権威を敵に回し、名誉や利益を逃すこともある。しかし私は、損以上に得るものがあると確信している。なぜか。それは、虚構に縛られぬからである。人間の不変の愚かさを直視し、自らもその一部であると認めたとき、言葉は軽くなり、行為は自在になる。
愚民自認は、敗北ではなく解放である。損を恐れず、愚かさを恐れず、真実を語る。その一点において、損は損ではなく、得は得以上の価値を持つ。これこそが、愚民を超えようとする者に与えられる、ただ一つの自由なのである。





