がんの話(4)~死に方と生き方、医療情弱脱出の自己防衛

<前回>

 がん患者にとって、最終的な判断と意思決定を形成するうえで、多岐にわたる医療情報を入手し、理解する必要がある。

 インフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での合意)は言われて久しい。法制化も動いている。医療現場ではどうであろうか。がん治療に限らず、一般の疾病治療においても徹底されているとは思えない。

 私自身の限られた体験になるが、医師との対面(受診)時間はわずか数分。物理的に情報を十分に得る余裕がない。病気の発生原因、他の病気の可能性、治療か不治療の選択肢、治療の選択肢とそれぞれのメリットとデメリット、最善選択肢の選定、投薬の詳細、薬の期待効果と副作用、検査の選択肢・・・。

 一通り完全に情報を得るには時間がかかるし、医師側からすれば一人ひとりの患者に対し医学の授業を行うことはできない。患者自身の学習や情報取得も必要だ。

 私が以前よく鼻血が出ることで、耳鼻科にかかったことがあった。病院に行く前にネットで検索して、病因について色々調べてみた。さらに肝心なことに、出血時に出血場所の位置を自分なりに特定した(受診時に出血がないので、出血箇所の特定が難しいかもしれないからだ)。

 「キーゼルバッハ粘膜の出血ですか、鼻中隔湾曲の構造上の原因もあるのでしょうか」と、私が検査に当たった耳鼻科医師に聞くと、「医療関係の方ですか」と驚かれた。

 インターネットが普及する今日において、医学知識や医療情報はある程度ネットで入手することができる。もう少し勉強しようと思えば、医学の専門論文や学会発表情報も検索できる。言ってみれば、消費者である患者は、購買行為を行うに当たって、より多くの商品知識の入手が可能になった時代である。

 にもかかわらず、いまだに偉そうな医者がいる。「あなたは、こういう病気ですね。だから、こういう治療を受けなさい。こういう薬を飲みなさい」と、いつまでも上からの目線だ。

 さらに、診療情報の開示。法的規定や指針があるにもかかわらず、開示に積極的でない病院や医師がまだまだ多い。開示を求めると高額なコピー代を請求してきたり、もはや嫌がらせとしか思えない。診療行為に自信があれば、いくらでも診療情報を患者が持ち出して、他院でセカンドオピニオンを求めても問題ないはずだ。患者の利益よりも、まず自身の利益ではないだろうか。

 このような世の中が変わるにはまだまだ時間がかかる。かといって、病院に行って医師に「おれの病気を納得するまで説明しろ、診療情報をさっさと出せ」と喧嘩を売るわけにもいかないので、やはり自己学習に尽きる。

 がんを含めた病気と闘うのが、どうやら世間一般的な善になっているようだが、私はずっと疑問を持ち続けてきた。病と闘っていると思いつつも、実は病の治療と闘っていたり、医師と闘っていたりする場面もしばしばある。そういう世界である。私がこう言っているのは、決してアンチ医師、アンチ病院、アンチ治療を呼び掛けているわけではない。そんなつもりも毛頭ない。すべて医師任せにすべきではない。患者としての自己学習、自己防衛が必要だと言いたい。

 医師は決して全員神様ではない。生身の人間として判断ミスだってあるし、自己利益もある。診療情報それ自体、多大な非対称性が存在している可能性は決して無視できない。その情報非対称性の被害者(被害可能性も含めて)、いわゆる情報弱者である患者としては、ひたすら文句を言い、情弱の正義を主張しても、被害が止まらない可能性がある。だとすれば、やはり情弱脱出よりほかない。

 私自身も50代に入ると、これからいろんな病気と付き合っていかなければならなくなる。がんにかかる可能性だってある。さらに言ってしまえば、死に方を考えるのが私の人生の重要な課題である。死に方を決めたうえで、生き方を決めるのが私の主義でもある。

 もちろん、できれば長生きしたい。このため、自分もこれから医学情報弱者の立場から脱出すべく、初歩的な医学の勉強をはじめたいと、そう考えている。

<終わり>

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