がん治療とは何か?一経営コンサルタントの目線と意見

 FB上のがん患者友人のために書いたものである。

 まず、私は近藤先生(近藤誠がん研究所)のファンでも何でもないことを言っておこう。

 近藤先生に興味を抱いたのは、単にこの先生が業界の異端児だったからだ、といっても過言ではない。非主流的意見に耳を傾けることに価値を感じたからである。

 私は医師ではない、医学の知識もほとんどない。私は経営コンサルタントで、病院を一組織として捉え、それを切り口にがん治療の患者立場を考えている。

 組織とは、利益を求める人間の集まりである。万事すべて善き意図に基づくことは間違いない。ただ、組織が絡んでくると変質したりする。

 組織の自己存在・拡大本能は肥大化を惹起する。それが進行すると、組織の存在そのものが目的化し、原初の善き意図から逸脱することもしばしば生じる。その一連の変化は、漸進的に潜在的にフェード的に進んでいることがもっとも恐ろしく、大義名分が常に付きまとう。

 がん治療は、絶対的治療手法はなく、がんの種類や患者の状況によって、様々である。その状況とは、物心両方を含む。つまり、がんに対する姿勢、患者の人生観、価値観、家族観ないし死生観がかかっているからだ。

 このような「心」の問題も総括的に集約し、一人ひとりの患者にとってまったく異なる治療法が取られることがあってもおかしくない。

 「治す」というのが治療の目的であっても、果たして唯一の目的であるか。ここでは人によって異なる答えが出てくる。であれば、治療行為の多様性の存在も自明の理であろう。

 家族と相談する、という問題点も指摘させてもらう。医師は患者の家族に「治す」方向を示した以上、家族は大義的に反対しようがない。家族が治療の正当性を裏付ける材料とされることがあってもおかしくない。

 FB上で病のことを言っても、大方の人は闘病行為を讃え、「がんばってください」や「治癒を祈る」といった無難な社交辞令を発する。見舞いもそうである。

 他人の好意的言説や行動は、社交活動の一環として執り行われている。それが患者自身にとってどのような意味を成すか、少なくとも治療方向性の戦略的決定にはほぼ無関係である。他人は助言の責任を取りたくないからだ。それが社交である。

 それがまったくその通りだ。助言するべきではない。ちなみにいうと、私は起業したいという相談に一切助言しないのも同じ意図が込められている。

 がん治療に関して、最終的にすべて患者自身が判断することだ。判断するために、なるべく多くのプロの意見を聞く、特に対立意見を聞く。そのうえで、自分が判断し、決断する。

 医師も友人も家族も、自分ではない。自分の人生は自分で決める。

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