舛添事件の本質、「道徳審判」の生贄とルサンチマンの民

 舛添氏は法に触れていない。ルサンチマンの民の「道徳審判」に処刑されたのだ。今日の日本はある意味で、村社会の延長に過ぎない。

 国益次元のことや、政治や、政策や、まともな知識もなく、いわゆる「庶民感覚」でしか政治家を評価できない。だったら、芸能人や有名人ではなく、ピューリタン(清教徒)や僧侶を政治家にすればよい。

 舛添事件を、3つの層、3つの視点、そしてその本質という3つの部分に分けて総括したい。

(一)舛添事件の3つの層

 「法」「理」「情」という3つの層から考えよう。

 まず「法」。舛添氏の行動の適法性が確認されているので、法的問題は基本的に存在しないだろう。次に「理」。彼の「更生」を信じなくとも、都知事選に50億円の都民の税金が投入され、さらに五輪関係の空白問題。合理性からいえば、彼に期間限定の猶予を与えた方が合理的だ(自民党内にもそれらしき案があったはずだ)。さらに「情」。基本的に、民の情が暴走しただけの話。

(二)舛添事件の3つの視点

 1.舛添氏本人の問題。
 2.メディアの問題。
 3.国民自身の問題。

 私はこの事件の中核は、3つ目だと思っている。ネットメディアに便乗する1億総評論家、聖人君子の高所からの批判・罵倒・打倒、政治家や有名人を引き摺り下ろすルサンチマンの快感、低俗そのものである。

 人間はみんな生き物だ。私自身も含めて、私利私欲の固まりだ。そういう事実には、なぜ腫れ物のように触れられないのか。偽善以外何物でもない。

 私は、舛添氏が最初から嫌いだった。でも、いまは彼を同情する。彼は愚民どもの「道徳審判」の生贄(いけにえ)になったからだ。

 彼を引き摺り下ろして、ルサンチマンの民たちはひと時の欲求満足を得ることだろう。しかし、その満足はあっという間に消えるだろう。またすぐに次の生贄を物色するようになるだろう。

 愚の、愚による、愚のための愚の政治。このままでは、日本は三流の愚国に転落する。

(三)舛添事件の本質

 「手続的正義」と「実質的正義」。舛添事件の本質はここだ。

 法律にも「手続法」と「実体法」という2種類の法律がある。法律のこと、ネットでも難しいことばかり書かれているが、分かりやすく解説しよう。

 誰から見ても、殺人犯だという人。ただ証拠は皆無だ。その容疑者をどう処理するか。O・J・シンプソン事件を想起してもらえば分かりやすい。米国の刑事裁判で無罪判決を言い渡された。

 つまり、実質的(実体)に有罪と分かっても、立証できなければ無罪となる(手続)。推定無罪原則!これこそが法治社会の原則である。

 実質的正義(結果)があっても、手続的正義(手段)がない。それはなぜダメなのか。たまたま、結果がよかった、悪が裁かれたとしても、今度、善が同じように裁かれる可能性が生じるのだ。冤罪だ。

 結果がよければすべてよしということにはならない。手続的不正義によって、たまたま実質的正義が実現したとしても、次から手続的不正義が正当化され、実質的不正義につながる危険な基盤が出来てしまう、ということだ。

 まして、司法手続を超えて群衆の道徳審判となれば、これは時代逆行の原始回帰にほかならない。

 甘利氏が叩かれた、猪瀬氏が叩かれた、ベッキーが叩かれた、小保方氏も叩かれた・・・、政治家や有名人を叩き潰す。ルサンチマンの民によるガス抜き的な叩きが裁きの主流になれば、日本の法治は世界に笑われる。

 ほら、民主主義ってこんなバカなシステムなんだと、独裁政権の中国にも北朝鮮にも笑われる。

 舛添氏はダメな知事だ。この実体は誰の目にもそう映っている。舛添氏に辞めてもらうこと(実体)は、実質的正義だと、私も思う。ただ、辞めさせ方(手続)をきちんと法に則って、粛々と進めていく必要がある。その理性的な行動は国民資質の表れだ。

 リコールならリコールの手続を踏む。任期まで猶予を与えるならそれでもよし。その代わりに、なぜこんなダメな知事が選ばれたかと深く、深く、都民だけでなく、われわれ一人ひとりの日本国民が反省するべきではないだろうか。

 これこそが、民度である。

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コメント: 舛添事件の本質、「道徳審判」の生贄とルサンチマンの民

  1. ジャック・アタリの「サバイバル」には同感、しかし、彼の醸し出す雰囲気のうさん臭さが、私から離れない。

  2. 舛添さんの報道を見ていて違和感を感じていました。

    閉塞感が強い日本の社会では、こうした”袋叩き”が増えてくるような気がします。

    一方で肝心なことには政治家もメデイアも国民も手を着けず、”茹でカエル”状態が続いています。

    日本を脱出しようと考えて行動を始めたとき、周囲の友人たちとの認識の違いに孤独感を強めた時期がありました。
    そんな時、ジャック・アタリの著書「サバイバル」を読んで府に落ちたことがありました。

    個人のサバイバルは孤独感なしには成し得ないということに気づきました。

    1. 高山さん、同感です。群集心理に踊らされていれば沈没につながる時代です。サバイバルは欠かせないし、それに伴う孤独感も必要でしょう。ジャック・アタリの著書「サバイバル」をご紹介いただき、ありがとうございます。早速Amazonに注文入れました。

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