禅の静寂と平和、六根清浄して投票所へ向おう

 茶の湯の本意は、六根を清くするためなり。眼に掛け物・生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味ひ、手足格を正し、五根清浄なる時、意自ずから清浄なり。畢竟(ひっきょう)、意を清くする所なり。(「葉隠」第二巻聞書の二)

 茶道は禅の体現であり、究極のところはやはり、人間の認識の根幹である「六根清浄」を求めるものである。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、そして触覚という五根を浄化し、欲や執着を絶ち、心を清らかな状態にすることによって、正しい意識が生まれる、という理論である。

 このような清浄作業に必要なのは、「静寂」である。茶道自体もその体現である。「静寂」の「寂」はつまり日本語の「さび」である。この「さび」の本義は、静寂よりはるかに広い。「寂」にあたる梵語の「Santi」は、「静寂」「平和」「静穏」を意味し、さらに仏典ではしばしば「涅槃」「死」を意味する。

 「平和」と「死」が同列に並べられることに驚きながらも、「死」は即ち永遠の「平和」であり、また「静寂」にも帰結することを考えると、深く納得する。そもそも禅宗の宇宙観である「一即多、多即一」という次元で解釈してもそれが通じるし、むしろさらに納得が深まる。

 多くの日本人は平和主義者である。平和を絶対善とするのも、この禅宗の世界観や美意識に起源しているのかもしれない。ただ戦後の日本社会で語られる「平和」はいささかこの起源にかい離しているのではないだろうか。それは、ひとえに戦乱によって多くの生命が失われる悲惨なる事実はもう真っ平御免で、「二度とないように」という方法論に帰結されているように思えてならない。

 本源的思想からの遊離である。

 「平和」が「生の維持・死の回避」の方法論として語られることを、禅宗的美学で批判するつもりは毛頭ない。それはそれで結構なことだ。ならば、「平和」よりもまず「安全」を第一義的に考えるべきではないだろうか。「平和」と「安全」はまったく違う。「生」を目的とする「平和」を求めるなら、むしろ実効性を伴う「安全」がその確固たる担保でなければならない。

 禅をさらに掘り下げてみると、武士や剣、戦い、犠牲、つまり「死」に直結する概念でもあることが分かる。これもひとえに生と死の「無分別知」という禅の本源に答を求めるべき事柄である。武士が大刀と小刀という二本差しで帯刀するのは、大刀は戦うのに使い、小刀は自害するために帯びているからである。生死を同一視する死生観と美学があってこその行動であろう。

 「生の維持・死の回避」を主旨とする「平和」ならば、まず自害用の小刀を捨てて、大刀一本で良かろう。いやいっそう大刀も捨てようと、真っ裸になって「おれは平和主義者だ。殺すなら殺せ」と絶叫して首を突き出すのは、もしやこれも個人のいささか歪んだ死生観や美学なのかもしれないが、ただ、それは人を巻き込むのは許されない。

 集団的自衛権ならぬ集団的自殺権があってもいいが、合意が必要だ。合意なき無理心中は殺人に等しい。そもそも、国家というのは、万人による万人の闘争という原始状態から脱却し、個人の安全保障が一括して委ねられる集団契約、社会的契約である。「安全保障」はいうまでもなく、その契約の第一義であって、正道である。

 国民全員で「平和」と「安全」を再考するためにも、改憲の発議という機会をなくしてはならない。そんな心情で今回の参院選を見守りたい。

 六根清浄。いっぱいの茶でもいただき、五根を清浄し、六根目の正しい意識を得てから、投票所に向おう。

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