【学会報告】ベトナム労働法改正(2020年)と在越日系企業の人事労務課題

ベトナム労働法改正(2020年)と在越日系企業の人事労務課題
立花 聡(エリス・コンサルティング)

アジア経営学会第26回全国大会(小樽商科大学開催)
報告日:2019年9月15日※

1. はじめに~背景と課題

 米中貿易戦争の長期化に伴い、生産拠点の脱中国化とベトナムへの移転に拍車がかかり、これによりサプライチェーンの地政学的なシフトと再構築が進んでいる。大量の外資企業の流入がベトナムの人件費を急速に押し上げている。一方、同国の固有課題である労働生産性は目下、大きな改善が見られないまま、人件費上昇との乖離が拡大していく懸念が強まっている。

 ベトナムの投資環境、とりわけ労働法制と雇用環境の諸課題を裏付けるキーとなる「ベトナム労働法」は、中国の「労働契約法」と同レベル、あるいは箇所によってはそれを上回るほど労働者保護に厳格な要件を課している。さらにTPPへの参加に伴い、ベトナムは労働者保護の度合を引き上げるべく、労働法の大幅改正に乗り出した。改正案はすでに2019年5月に国会に上程され、同年10月開催の国会で採決され、2021年に施行される予定である。

 改正法では、従来の労働法における「過剰な労働者保護」については、残業時間上限の引き上げ(年間300時間から400時間へ)を除き、基本的に既定の路線を踏襲しながらも、新たに、定年年齢の引き上げや労働者の辞職の完全自由化など、いずれも雇用者に厳しい改正が行われようとしている(2019年5月現在の改正草案)。時系列的に国際情勢の進展と相まって在越外資企業にとり、雇用の流動性欠落(硬直化)の問題とこれに起因する生産性低下の問題が深刻化するだろう。この課題の本質を考察し、企業レベルにおける労務政策や制度改正の方向性を模索することが本報告の目的である。

2. ベトナム労働法制の根本的問題点

 ベトナムは労働者保護という顕著な法の指向性を有している以上、解雇規制に厳しい要件を課している。そのうえ、賃金調整や昇降格、異動などといった人事権にまで多重の規制を加えたところで、企業の雇用・人事労務にかかわる流動性と柔軟性を奪ってしまう。米国の場合は解雇権、日本の場合は人事権を駆使して労務管理のキーとしているが、解雇権も人事権もそろって実質的に喪失した場合、企業の新陳代謝機能が失われる。

 日本の正社員終身雇用制度が崩壊するなかで、ベトナムは日本よりも厳格な無期雇用制度を導入している。最長勤続6年(試用期間不算入)の労働者は強制的に終身雇用に転じたところ、企業は人事権の喪失により、事実上減給も降格も不可能に近い状態に陥る。さらにこのたびの法改正では、定年退職の年齢は現行の男性60歳から62歳に、女性55歳から60歳にそれぞれ引き上げる方向を示している(2019年5月現在の改正草案)。これが確定すれば、企業内の低パフォーマンス高齢者がますます増え、結果的に企業にとって、新卒や若年者の雇用に余裕がなくなりかねない。

 さらにベトナムのTPP参加により、独立系労働組合の結成を容認する法改正も語られている。これが実現すれば、現時の官製版労働組合(VGCL=ベトナム労働組合総同盟)の労使協調路線からかけ離れた労使闘争の方向にも走りかねない。そうした賃上げ圧力が強まるなか、企業内の欠格労働者の賃金調整等における人事権を行使できなければ、その悪しき結果は目に見えている。
 日本国内の企業にも人事権があり、企業がこれを行使できることを、労使間の労働契約や就業規則により約定すればいいと考える人も多いが、現状はそう簡単ではない。日本の場合、労働法令上、このような労使の約定を制限し、否定する条文が存在せず、また企業は広範な人事権を有している雇用慣習も一般に認められている。ポイントは、「約定」を制限し、否定する「法定」が存在するか否かである。

 「ベトナム労働法」ではまず、書面労働契約の締結を義務としたうえで、さらに同法第23条1項では、「労働契約の内容」として、「職務と勤務地」「賃金、賃金支払いの形式と期限、手当、その他の付属項目」「昇給制度」と規定・明示している。労働契約に、これらの「人事権」に係わる内容を合意し、盛り込まなければならないということだ。一旦合意した内容を後日変更しようとする場合、同法第35条に基づき、書面形式による契約双方の再合意(変更に対する合意)が必要だ。再合意ができなかった場合、既存労働契約の継続履行、つまり旧条件の維持という結果になる。

 法の明文規定が優先した時点で、法定に否定された約定は無効になる。言い換えれば、いくら就業規則や労働契約に明文約定しても、これらは法定に勝てず、結果的に机上の空論になるのである。一旦引き上げられた賃金も与えられた職位(地位)も、労働者の同意をなくしてこれらを企業が一方的に変更できなくなってしまう(労働者は不利益変更に応じない)。

3. 解雇権と人事権のリバランス

 企業は所在国の法制度(法改正)をリスペストしなければならない。コンプライアンスの下における解雇権と人事権のリバランスが喫緊の課題となる。この課題に取り組んでいくうえで3つの観点から考察したい。

 まずは、解雇権の放棄である。法的に解雇権の行使には、厳格な立証義務が求められている。理論上可能だとしても、企業の実務レベルでは労働者の欠格を立証することはそう簡単ではない。何よりも立証には多大な取引コストが伴い、本業に投入すべきリソースの無駄転用になれば、まさに本末転倒である。そこであえて解雇を断念する。解雇権の行使を諦めた時点で、実務上の人事権を最大限に確保する制度設計と運用に専念したい。

 次に、人事権の確保に当たってのポイントになるが、前記「ベトナム労働法」における書面労働契約の締結義務に着目し、非法定約定事項を基本契約(労働契約本体)から排除し、別途オプション的な附帯約定事項として、労働契約本体と切り離された時限付きの「特約」を締結する。そうすることにより、たとえ無期労働契約の締結者(保有者)であっても、その労働契約上で確保され得る「既得権利」が限定的なものになり、もっとも重要なのは、あらゆる既得利益は時間の経過とともに無制限に上積みされ、かつ再調整不能な状況が回避され得ることである。

 最後に、上記の制度理念は、2つの「分離」原則に基づくことを確認したい。1つの「動静分離」の原則。労働契約という「静態的」要素と労務管理という長期にわたる「動態的」要素との分離・リバランスである。もう1つは「労働法と民法の分離」原則。労働法の本旨は、フロントラインの労働者の利益を保護するものであり、高給取り特に中上級管理職の利権を安易に保護するものではない。ベトナムの現行法では、指揮命令権を有するもの「経営代理人」たる者も給与所得者である以上、一律労働者と見なされ、労働法の保護を受けるという不合理性が存在する。これらの者の利益はむしろ民法の所轄範囲である以上、企業の労務管理現場では、労働法と民法の異なる射程を定めたうえで、区分して異なる契約形態を取る必要がある。この2つの原則をベトナムにおける人事労務管理一般に運用すれば、自ずと汎用性が付与される。言い換えれば、ベトナムにおける人事労務制度の構造は上記原則を反映すべく、多重層による棲み分けが必要である。

※当日は病気のため欠席、報告主旨のみを掲載します。

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