「生きづらい日本人」を捨てる、その本質とは?

 空港の本屋には、機上の読書人に適した本が置かれている。この1冊を手にして東南アジアに飛び立つ日本人ってどんな人たちだろうか――。

 『「生きづらい日本人」を捨てる』

 カンボジアやタイ、ベトナムに暮らしているあまり豊かではない日本人たち。アジアに昔から興味があったわけではなく、偶然の機会で「魔」のアジアに触れ、感電した、というパターンが多い。正確にいうと、アジアに触れたことで日本社会との「非親和性」に気づき、目覚めたと。

 日本社会はその「均質性要件」から、いわゆる下層民や異端者の存在を容認しない。高度成長の時代を終えてみると、日本は世界のどこの国にも見られる階層の分断現象が顕在化した。しかしながら、非寛容的な社会はこれを肯定しようとしない。日本社会は「階級」や「階層」たるものを善としないからだ。

 そうすると、実質的にその階層や集団に属する人たちは居心地が悪くなる。「生きづらい」感が生まれるわけだ。ついに彼たちは「外的解決」に目を向け、見つかったのはカオス的なアジアである。言い換えれば、日本社会の中にもし、多層的な構造が容認されれば、この人たちのほとんどが国内に踏みとどまったはずだ。

 なぜかというと、この人たちは決して「アジアの達人」ではないからだ。この本にも書かれているように、アジアで詐欺やトラブルに遭遇したり、基本的なサバイバル術をもっていない人が多く、言ってみればごくごく普通の「性善説」的な日本人である。アジアでつまづき、にっちもさっちもいかなくなると、最終的に彼たちには「帰国」という退路が残されているのである。

 世界中のほとんどの大都市にスラムがある。だが、日本では少なくとも公認されるようなスラム街は存在しない(大阪の某地域を除けば)。退廃地区やら貧民窟やらどうもその辺はネガティブなニュアンスが満点だが、少し目線を置き換えてみると、何も物理的な地域でなくとも、異なる意味においての非均質性が容認される社会的空間が必要ではないかと私は思う。

 終身雇用時代の終焉やAI時代の到来とともに、日本社会の均質性は必ず崩壊していく。経済的非均質性だけでなく、価値観や人生観、世界観における非均質性が広がれば、むしろ社会は真の多様化という意味で健全な方向に向かうだろう。

 『「生きづらい日本人」を捨てる』という命題を再び吟味してみると、彼たちは決して「日本人」を捨てたいわけではないことが分かる。「生きづらい」という現状からの脱却願望の表出に過ぎない。そう思えてはならない。

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