共産主義者の善き意図と過酷な現実、ホーチミン廟との対話

 ハノイ出張中、1日時間が空いたので、観光に出かける。そういえば、4年間ハノイで仕事して、観光らしい観光ははじめて。向かうは、あのホーチミン廟である。

 時間的に合わず、霊廟内に安置されているホーチミン氏の遺体を拝見することはできなかったが、霊廟外観や博物館、そして名物の衛兵交代式は問題なく見学できた。真っ白の軍服に身を包んだ衛兵が行う儀式はなかなかベトナムらしくて見応えがある。

 ホーチミン氏は死後火葬し、遺骨を同国の北部・中部・南部に分骨して埋葬することを望んでいた。しかし、その意向は無視された。共産党政治局の決定により、遺体はレーニンにならって、ソ連の援助を得て永久保存措置を施され、霊廟に安置された。さぞかし信じられないことだ。

 どんな美辞麗句を飾ろうとも、本人の意思が無視されたことは重い。社会主義・共産主義者の遺体保存はどちらかというと、宗教化願望と実需があっての出来事であった。後継者や利益集団はその正統性を主張する際に、教祖たるものがリアルであればあるほど都合が良い。

 中国にも見られるように、マルクス思想の継承は抽象的理念よりも、リアルな政治家の個人解釈たる思想や理念が重要視されている。いわゆる特色ある社会主義やら共産主義やら、そうした代物を正統化する手段が必要だからである。

 ホーチミン氏が社会主義の理念とともに人文主義を掲げていた。人文主義の至上かつ最終的目的は、人間が徹底的に解放され、国や世界の本当の主人になることである。しかし、人間の徹底的な解放とは何かというと、思考や思想の自由を得ることである。そもそもそこまでの自由が手に入った人民を前に、共産党は果たして一党独裁など維持できるのか。甚だ矛盾である。

 マルクスから始まった共産主義の理論は、いろんな国でいろんな独裁者によっていろんな形に改造されつつも、1つだけ不変なものがある。それは「階級闘争」である。労働者と資本家、民族主義者と外国侵略者(植民者)。世の中を常に単純な善悪二極化し、相互の闘争を煽動するのは共産主義である。

 その階級闘争の燃料とは、人類がもつルサンチマンにほかならない。経済が好調に成長し、貧富の格差が大きくなればなるほど、ルサンチマンの総量が増大する。資本主義をいたずらに社会主義国家に取り入れたところ、その矛盾はいずれ表面化する。時間の問題にすぎない。

 ホーチミン氏も多くの共産主義者の如く善意に満ちた動機によって一生を祖国に捧げた。そして今のベトナムや将来のベトナムは、彼が描いた国家像にぴったり一致するのか。氏が安らかな眠りから起されぬよう、そう祈りたい。

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