中国人はなぜ非を認めないのか、謝罪で人生滅びる恐怖

● 間違った料理食うな!

 お客さんのどこが悪い?食べるのが大好きな私ですが。

 上海の某レストランで食事中。あれっ?こんな料理を頼んだ覚えが無いなあと迷いながらも、箸を入れようとすると、「ちょっと待って!まだ、食べないで、これは、別のテーブルの料理かもしれないから」と、怖いおばさん服務員が止めに飛んでくる。間違って持ってきたのは、あなたたちだろう。まるで、お客さんの私が間違ってほかのテーブルから取ってきたような言い方じゃ失礼だろう。

 「対不起」という言葉は、中国語の削除から削除しても、問題はない。一般的に中国人は、非を認めないといわれている。明らかに自分が間違っても、決して、「私が間違いました」とは言わないし、「対不起(すみません)」も言わない。「別のテーブルの料理」という結果はその通りだが、「間違って持ってきた」という行為について、決して謝ろうとしない。殺されても「対不起」と言わないおばさん服務員だった。

 レストランの「非を認めない」論をカテゴリー別に分けてみる、ざっとこんな感じではないかと――。

 たとえば、料理Aを注文したのに、間違った料理Bが出てくると、ウェイトレスの言い分は、概ね以下何通りある。

(1) 顧客の悪人化 悪質度 ★★★★★
 「お客さんは自分で、料理Bを注文したんだろう」
 「間違って出てきた料理でも、お客さん、あなたがもう食べちゃったから、取り替えられないよ。払って」
 <怒りの声>声もでない……。

(2) 同僚の悪人化 悪質度 ★★★★
 「私が厨房に料理Aと言ったのに、厨房の人が、間違ってBを作った」
 「あ、注文を取ったのは、新人だったから、彼女はまだ研修中でよく分かっていなかったんだよ」
 「誰が注文を取ったのか?その人の責任だ」
 <怒りの声>あんたたちみんな同じ店だろう。新人に当たった客の運が悪いとでも言うのか!

(3) 不可抗力化 悪質度 ★★★★
 「料理Aは、売り切れだったよ。料理Bに変えておきました。ほとんど一緒だから」
 <怒りの声>>>>>なんで早く言わないんだよ。一緒かどうか、私の判断だろう!

(4) 自分の善人化 悪質度 ★★★
 「料理Aは、売り切れだったよ。料理Bの方がもっと美味しいし、変えてあげたよ」
 <怒りの声>キモい!

(5) 料理の悪人化 悪質度 ★★★
 「あら、違う料理が出ちゃたね。取り替えるから、ちょっと待って」
 <怒りの声>バカヤロー!料理が自分で歩いてくるかよ!

(6) 間違った人間ぼやかし化 悪質度 ★★
 「あら、誰か間違えたわね。取り替えるから、ちょっとまって」
 <不満の声>「悪かった。すみません」の一言を言ってくれたって良いじゃないか!

(7) ミスの補償行為化 悪質度 ★
 (何も言わないが、料理を取り替えて、ほかに何かサービスする)
 <普通の声>まあ、良しとするか。

(8) 謝る 悪質度 ゼロ
 「すみません、私どもの手違いだった。すぐ取り替える」
 <激励の声>まあ気にするな。人間なら、誰でも間違えるから、頑張って!

● 中国人はちゃんと謝る

 ネット検索してみたら、「中国人は、なぜ謝らないか」という内容がたくさんヒットする。

 「自分に非があっても謝らない、こうした中国人の態度は、悪い(間違った)ことをしたらすぐに謝る日本人にとって、実に腹立たしい」

 というのは、平均的な日本人の声を代弁している。それをよく吟味すると、あることに気がつく。「非があって→謝る」 というのは、日本人の考える常識と行動パターンだ。言い換えれば、「謝る」、つまり「口頭謝罪」というのは、「非を認める」証として捉えられている。

 ここが問題。中国人は、「非を認める」方式は、多くの場合「口頭謝罪」ではなく、「行動謝罪」なのである。言葉では謝らないけれど、何らかの行動で償いをする。なぜ「行動謝罪」かというと、基本的にメンツの問題。「行動謝罪」と「口頭謝罪」、形式が違っても「謝罪」という結果は一緒だ。ただ、「メンツ破壊度」に雲泥の差がある。

 実際に最近、中国人の「口頭謝罪」が増えているように感じる。「対不起」(ごめんなさい、すみません)よりも、「不好意思」が多用されている。「不好意思」(ブーハウイースー)とは、何らかの客観的事情があって先方に迷惑がかかったことに遺憾の意を表する、と私が理解している。謝罪の言葉として、非常に「洗練」されている。外交辞令である。

 「他人の身に悪果が生じたこと」に対して、「遺憾」や「残念」の気持ちを表現しながらも、「悪果誘致の原因」は多岐にわたるので、安易に自分のせいにしたくない。けれど、「良心上」「道義上」的なものあるいは「人を助ける善意」に基づいて、相手に対しての救済措置を講じることは、辞さない。という「行動謝罪」の典型である。

● 「メンツ理論」で説明できない

 日本人の「非の認め方」といえば、まず、ストレートな「謝罪」から入る。「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ありません」「ご迷惑をおかけしました」……。

 日本語ほど「謝罪用語」の多い言語は、ほかにない。日本人はすぐに謝罪する。いくら怒っていても、相手が謝罪の言葉を繰り返しているうちに、怒りが収まり、平和に戻る。本来は、損害賠償を求めてもいいときでも、相手の謝罪で、そこまで謝っているのだからもういいだろうと、賠償請求権を放棄したりして、「和」が実現する。

 でも、最近少し気が付いたことがある。「口頭謝罪」を逃げ道にする日本人が増えているように思える。ただ機械的に「申し訳ありません」の繰り返しだけで、どこでどのように相手に迷惑をかけた、そして、どのようにすればその迷惑を早急に排除し、改善するかを考えないし、アクションを起こそうとしない人が多い。これが大きな問題だ。

 中国人は「口頭謝罪」の代わりに、「行動謝罪」するケースが多いといったが、1つの事例を挙げよう。

 数年前上海で、私がタクシーに乗って、運転手が目的地まで遠回りした。決してぼったくりではなく、単に最短ルートをその運転手が知らなかっただけだった。

 すると、私が運転手に「最短ルートをあなたが知らなかったのね」というと、運転手がすぐに否定する、「違う、私は知っているのだ、ただ、○○××の理由で、あのルートを取らなかっただけだ」と反論してくる。私は「いや、人間は誰でも知らないことあるから、かまわないよ。一言『対不起』で済むことだし」と宥めるつもりだったが、運転手は「いや、私は、間違っていない」と逆ギレ。私もだんだん頭に来た。「あっ、そういうことをいうなら、じゃ、タクシー会社のセンターに電話して、あちらに判断してもらおうじゃないか」と反撃に乗り出す。運転手は、勝ち目がないと判断したのか、最後の手として、「もう、代金は要らないから」と切り出した。

 乗車賃を放棄してまで「口頭謝罪」を拒否する行為は、100%「メンツ理論」で解釈することができない。「口頭謝罪」はよほど殺傷力のあるものだと痛感した。なぜだろう。

● 冤罪物語と推定有罪

 面白い事例を見てみよう。

 ある事件で、河南省の警察がある男を容疑者として逮捕した。尋問したところ、別件で十数年前に河北省で女性4人も暴行殺害したと自白した。河南省警察は、早速河北省警察に照会する。すると、信じられない回答が河北省警察から戻ってきた。河北省婦女暴行殺人事件は、すでに十数年前に河北省警察によって解決済み、「犯人」とされた男性は婦女暴行・殺人罪で十数年も前に死刑にされたという。笑うに笑えない冤罪事件だった。

 推定無罪の原則がある。「有罪判決が確定するまでは無罪である」という原則である。確固たる証拠がない限り、この原則に従い無罪として推定しなければならないのである。

 中国では、伝統的に「推定有罪の原則」が実務的に使われることが多かった。科学的な現場鑑識から合理的な推理分析、高度なインテリジェンスが事件解決に必要とされるが、中国にはそれがなかった。警察は、事件捜査に熱意がなく、捜査能力も低いため、とにかく強引に自白を容疑者に強要する傾向があった(日本にも類似した問題があるようだが)。

 中国の新聞を開くと、警察の事件解決件数と検挙率が年々上昇していると誇らしげに書いてある。それを見るたびに失笑する。いわゆる市場経済の中、警察まで「○×率」の評価ベンチマークが押し付けられている。検挙率の高い「優秀警察」が賞を受け、賞金をもらう。国民の公僕としての警察は事件を解決するのが当たり前の責務ではないか。当り前のことを当たり前にやっただけで、受賞するとはおかしすぎる。

 それは、これまで当たり前のことを、当たり前にやってこなかったことを自ら証明しているも同然。これでは検挙率アップと賞金・ボーナスを目当てに、捜査活動が一層粗末になり、真相の追求よりも、容疑者の自白に安易に頼る傾向がエスカレートする一方だ。結果的に、冤罪事件が増え、真の犯罪者が法の裁きから逃れる結果となる。

 「坦白従寛、抗拒従厳」(自白すれば寛容に、抗えば厳罰に処す)。中国語にこういう言葉がある。日本の時代劇に出てくる奉行所を想像すれば分かりやすい。役人がならず者をしょっ引いてきた場面――。

 役人 「例の人殺し、おまえがやったんだろう?」
 ならず者 「しっ、知らねぇ!」
 役人 「ほぅ~、頑張るじゃねぇか。おい、もっとやれ!」

 役人が小役人に命じると、男の悲鳴が拷問部屋から牢屋にまで響き渡る。やがて 苦痛に耐えかねた男が気絶すると、
 役人 「この野郎、気絶しやがった」
 小役人が横殴りに水をぶっ掛ける。バシャー……。

● 謝罪で人生が滅びる恐怖

 「従実招来」(真相を吐け)!

 中国の時代劇や伝統的京劇にも、「冤罪物語」が多い。かならず役人が容疑者に、「従実招来」というセリフで怒鳴りつけるのだ。「おまえら、自分で捜査して来い」と言いたくなるが、そこまで能力がないのが役人だった。

 中国は歴史的に、立法・行政・司法の3権分立がなかったため、地方の官僚は行政権だけでなく、地方立法や司法の権力をすべて握っていた。「官が法なり」という中国の古代に、清廉潔白な官吏が人民の尊敬する英雄となっていた。あの有名な「包青天」は、その代表格だった。彼は公平に法を取り仕切るだけでなく、どのような悪人にも立ち向かい、その上、計略にも長け機知に富んでいる人物だったそうだ。

 このように、中国の司法制度には、歴史的に独立した公正な裁判システムがなく、官吏が生殺与奪の権力を持つため、「冤罪物語」が芸術作品として数多く残っている。「坦白従寛、抗拒従厳」というスローガンは公安警察の取調室の壁に張られているのが、昔の映画を見れば分かる。自白に頼った捜査活動は到底した捜査とはいえない(日本も偉そうにいえないが)。

 文化大革命の期間中には、知識人、官僚から一般市民に至るまで、政治的迫害や弾圧の手段として、自白強要が普遍的に使われていた。「坦白従寛、抗拒従厳」も、実際の運用上では「坦白従厳、抗拒更厳」(白状すれば厳罰に、抗えば更に厳罰に)がほとんどだった。「非を認めろ」と言われたところから、ぬれぎぬを着せられたり、小さな過ちが大きな犯罪に化けたりし、とにかく非を認めれば、さらに大きな弾圧や迫害を受けることが目に見えていた。

 このような過酷な時代を生き抜くために、口を堅くして身を守るのが絶対的条件だった。環境への順応本能が働き、それが身に付くと、後からではなかなか直せない。長い歴史に残された負の遺産は、DNAと化して社会に浸透し、人々の魂にまで焼きつき、消えることはない。

 非があって心の中で知っていても、決して口に出して認めない。異なる社会環境で育った人間から見ると奇妙な現象だが、歴史的経緯を見れば納得するかもしれない。当人をただ非難するだけでは問題の解決にならない。それどころか、相互の信頼関係が徹底に破壊されることも珍しくない。

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