思考を抹殺する暴力、「ポリティカル・コレクトネス」はなぜ危険か

 口にしたらすぐに叩かれる。少しでも反論するとまた叩かれる。息苦しい世の中は、「ポリティカル・コレクトネス」の全盛期である。いわゆる「ポリコレ棒」は、「社会的正義論」で作られている。

 「弱者を助ける」がポリティカル・コレクトネス。政治家が「自助」をいっただけで、叩かれる。聞くが、弱者の定義とは何か、弱者と強者の間のどこに線引きするか、弱者グループに紛れ込んでいる偽物弱者も救済対象か、どうやって見分けるか、弱者救済の原資はどう調達するか、大多数が弱者になった(原資不足)場合どうするか、弱者救済をする意欲と動機付けをどうやって強者に植え付けるのか……。

 このような議論を持ち出しただけで、「お前は弱者救済に反対するのか」とまたもやポリコレ棒で叩かれる。私は弱者救済に反対しない。むしろ賛成で積極的に取り組みたい。だからこそ、実行にあたっての課題をクリアしなければならない。ポリティカル・コレクトネスがあったとしても、プラクティス・コレクトネス(実行上の適正性)がなければ、すべてが机上の空論になる。

 もう1つの重要なことは、政治や正義の定義が時間とともに変化していることだ。戦前や戦中ないし戦後の早い時期の「正義」がいつのまにかフェードアウトし、代わりに異なる正義がフェードインしている。現在の正義が過去の正義を否定できるのなら、将来の正義も現在の正義を否定できる。つまり、ポリティカル・コレクトネスは時限性があって、歴史的賞味期限がつくことを想定しなければならない。

 差別を許さない。多様化を容認する。これがポリティカル・コレクトネスの主旨であれば、ポリティカル・コレクトネスに疑問を呈し、ポリティカル・コレクトネスに反対するのも多様性であり、これを許さないことそれ自体が、反ポリティカル・コレクトネスになる。「ポリコレ棒」となれば論外で、言論の自由を抹殺する凶器にほかならない。

 ポリティカル・コレクトネスは、1つの政治的正しさを強制的に規定し、それで世界を染め上げることだ。ポリティカル・コレクトネスの正体は、全体主義であり、民主主義下の多様性、思考や言論の自由に反するものである。正義の時系列的変化も含めて、世のあらゆる概念や事物には常に疑義を提示し、議論を交わし、これらを検証し、必要に応じて修正し、否定し、再生させる。これらの可能性を認知する必要性があるのだ。

 このために、概念の絶対化が危ない。緊張感を失い、弛緩した思考回路が徐々に脊髄反射化する。俗にいえば、洗脳が奏功したことだ。ポリティカル・コレクトネスはそもそも、歴史的にスターリニズムの教義に由来し、共産主義者の用語であったという指摘もあるが、その内実をみても同意せざるを得ない。

 昨今、米国の民主党や日本の一部の野党をみても、彼らがポリティカル・コレクトネスを掲げたところ、もはや中身は共産主義・共産党そのものである。彼らが中国共産党の人権侵害を批判するのは演技に過ぎない。彼らの目的は、政権の奪取支配の恒久化特権階級利益の最大化にほかならない。

 その結果はどうだろう――。99%の大衆は確かに格差が消え、等しく貧困に陥る。そして1%の特権階級が雲の上に暮らし、恒久的に支配のパワーと流れ込む富を享受するのである。共産主義とは、地上の格差を消滅し、雲上地上を分断するものだ。地上の被支配者から雲上の支配者のことが見えなければいい。その時、雲上の支配者が地上の被支配者を見下ろし、高笑いする。

【参考記事】
『「言を信じずにして行を見る」、日本共産党はなぜ人権侵害を批判するのか?』

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