キリン「首が長くて悪かったね」、首短種への逆進化と棲み分け構想

<前回>

 キリンの祖先たちの首があまり長くなかった。少しでも首の長いキリンは木の高いところにある葉を食べられて、生き残ることができた。首の短いキリンが生存競争に負け、自然淘汰を受け、死んでいく。そこで生き残った首の長いキリンたちが交配して生まれた子も首が長くなり、代々、首の長い個体が生き残り、首長の形質が固定して遺伝してきた。

(筆者撮影、2012年8月 ケニア)

 これがいわゆるダーウィンの自然淘汰説。首の長くないキリンが淘汰されていくわけだが、それを免れることはできないだろうか。たとえば、首の長くないキリンは高い木の葉を諦め、低い場所にある潅木(低木)や地上の草を食べて生き残ることはできないだろうか。いってみれば、首長キリンと首短キリンが「棲み分け」することだ。

 食べたことがないので、潅木の葉が高木の葉より不味いかどうかわからないが、首短動物でも届く場所にある葉や草は様々な草食動物に食われることは間違いない。そこで首短キリンにとっては同種の首長キリンでなく別種の草食動物たちとの競争が繰り広げられることになる。そうしているうちに首短キリンと首長キリンは、同種別属か別科に分かれたりするかもしれない。こうした進化になるかどうか、専門家でない私にはわからない。

(筆者撮影、2018年5月 ボツワナ

 生存競争においては、自然淘汰が行われる。それが自然の摂理といいながらも、たびたび人間にとって残酷なように見えたりもする。とくに「弱肉強食」という言葉ができて、それが社会科学の領域にも入り込んで、倫理的善悪まで意味づけられ、強者が悪となり、弱者が善となる。

 長い首で生き残ったキリンに言わせると、「首が長くて悪かったね」。そういう滑稽な人間社会になってみると、笑うに笑えない。動物界では生き残ったものが颯爽と草原を闊歩したり、悠々と大空を飛翔したりしてサバイバルの勝者として我が世の春を謳歌する。しかし、人間社会ではそうはいかない。それは人間が特別な動物であるからだ。

(筆者撮影、2018年5月 ナミビア

 人間社会では、首短キリンたる人間が弱化するにあたって、「自然淘汰」という言葉を使ってはならない。「首が短い」という表現すら使えない。それが差別として叩かれるからだ。弱者の救済には、首長キリンが取ってきた葉を黙々と首短キリンに分け与えなければならない。

 すると、首長キリンがだんだん馬鹿馬鹿しくなり、首を短くしたほうが楽に暮らせることを学習する。高いところに首を伸ばさなくなったキリンという種がいっせいに首短の方向に逆進化する(「退化」という言葉の使用も慎みたい)。それに高木もみんないっせいに首短キリンに合わせて潅木・低木化し、これも同期的逆進化する。そういうことになるだろうか。

 つまり自然淘汰でなく、種の逆進化に合わせて自然が変わることだ。自然界の社会主義的変遷現象が発生すれば、こうなるのだろう。種の平等、自然淘汰の回避というネーチャー・ポリティカル・コレクトネスがいよいよ社会科学から自然科学の領域にも浸透する。革命的だ。

 闘争や抗争、あるいは競争、あらゆる争いを回避するために、唯一の選択肢は、棲み分けではないだろうか。人類は同じ種として自然科学者に取り扱われているが、社会科学においては「多様化」という表現が使われている。多様化を無理なく包容する(包摂ではない)には、棲み分け以外に方法はない。

<終わり>

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