医原病のメカニズム、医師や医療行為に起源する病気とは

 「医原病(iatrogenesis)」、医師・医療行為が原因で生まれる病気のこと。

 1つ目、医療ミス。「現在アメリカでは、医療ミスによって自動車事故の3倍(医師の認める数字)~10倍の人々が亡くなっている。今では常識だが、院内感染のリスクを除いても、医師に起因する死はどの種類のがんよりも多いといわれている」(ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性(上)』p.193)。

 昔、某医師友人が飲んだ後に、私に「冗談」と前置きをしたうえで教えてくれた。「一人前の医者になるには、百人くらいの患者を些細な医療ミスで死なせることが必要」と。それを一応「冗談」としてここでみなさんと共有しよう。私も「冗談じゃない」と前置きにしていう。「私は少なくとも、その百人のなかに入りたくない」と。

 私がロースクールで法律を勉強する頃には、「メディカル・リーガル」という専門の研究チームが存在していた。医療ミスで訴えられた医師や病院ないし製薬会社を護るための法律研究と実務部隊である。クライアントがとてもお金持ちの医療業界と製薬業界だけに弁護士たちの収入も半端なく高額のようだ。

 医療ミスの訴訟は大変厄介だ。特に連鎖反応を引き起こす波及効果が怖い。病院側に勝算の高い訴訟なら、「訴えればよろしい」という強硬姿勢を示す一方、そうではない場合には、患者や遺族側の心理を読み、最小限の金を握らせ、うまく黙らせるいわゆる和解工作に取り組む。心理学者とタッグを組むときもある。学際や業際の連携が必要だからだ。

 2つ目、過剰治療。「過剰な治療を煽っている製薬会社、ロビイスト、特別利益団体や、すぐには表面化せず『医療ミス』とは分類されない被害だ。製薬会社が医原病を隠し、広めるのに一役買っているせいで、医原病は増えつづけている」(ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性(上)』p.193)。

 過剰治療以前の問題、治療の是非を問うプロセスが病院にはほとんど存在しない。「誰かに早く死んでほしいなら、かかりつけの医者をつけるといい。ヤブ医者をつけろと言っているわけではない。お金を出してやって、自分で選ばせるのだ。好きな医者を。これこそ、100パーセント合法的に人を殺す唯一の方法かもしれない」「医者は自分の給与の正当性を示さなければならないし、少しは職業倫理があることを自分自身に証明したい。『何もしない』のではその証明にはならないのだ」
 
 われわれ経営専門家の立場に立ってみると、倫理的動機付けインセンティブ的動機付けという2つの動機付けと法的・制度的根拠があれば、当事者の自走ないし暴走につながるという法則がそこで成り立つのだ。分かりやすく言えば、「そうすべきだと認識し、そうすることを担保する体制が整っており、かつそうすればご褒美がもらえる」という状態である。

 さらに患者側に医療保険制度による給付というインセンティブ制度があれば、それはまさに鬼に金棒の世界だ。数割の自己負担があっても、「安心を買うには安い」という「お得感」が湧くし、来る日も来る日も病院が満杯になり、社会保険制度が崩壊への道を突き進む一方である。

 3つ目、不足治療。これはタレブ氏が言及していない部分で、私の補足になる。私の実体験に基づく話を、『マレーシアで初病院、妙齢の女医から治療受ける』(2014年1月25日)に記してある。大事に至らない軽病には、不完全治療を行い、何回も患者に通院をさせることは、マーケティング学の概念「リピート購買」を連想させる。

 忘れてはいけないこと、医師も病院も製薬会社も商売である。白衣の天使であるときもあれば、場合によっては地獄の悪魔に変身するときもある。

 医原病は臨床的から社会的文化的次元に発展したにもかかわらず、課題解決の目途が立っていない。いや、堂々と課題提起・議論喚起でさえもままにならない状態だ。ひとえに一大産業になった以上膨大な利益集団が絡んでいるからであろう。異を唱える一部の専門家(医師など)が叩かれる場面もしばしば見受けられる。

 善悪を別として、医原病は産業社会の発達に必然的産物として捉えるべきだと考えている。患者あるいは患者ともいえない個人の場合、自己防衛しかない。

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