考えてますか?ワクチン差別という深刻なリスク

 ワクチン差別は接種できるかできないかの差別を通り越すと、次に出てくるのは、接種グループと未接種グループの格差である。2つの格差に分けて考察したい。

 1番目は、効用的差別。海外渡航や社会的活動におけるアクセスの利便性(参照:『ワクチン接種するかしないか、私の考え方』)を指している。たとえば、レストランや劇場などの施設、航空機や列車などの交通機関では、未接種グループの立ち入りや利用を規制、禁止するとか。

 これは単に効用的差別にすぎず、未接種グループは効用メリットを放棄し、あるいは代替手段を講じれば、深刻な影響には至らないだろう。むしろ、この差別はある程度、あってしかるべきだ。長期的副作用のリスクを抱えてワクチンを接種したグループに対するインセンティブとして、このレベルの差別は絶対必要であろうし、接種グループに相対的優越感をもたせることは大切だと考える。

 2番目は、道徳的差別。集団免疫取得という公共福祉を達成する意味において、接種グループがこれに協力し、社会や国家に寄与した功績(社会的意義)は大きい。しかし、こうした道徳的差別が内在的次元を超え、外在的に表出されたり、差別言論や行動につながった場合、社会問題にまで発展しかねない。

 たとえば、マスクの着用について、接種を済ませたグループにマスク着用義務を免除する政策をとっていいかという問題がある。免除は接種グループに対するインセンティブにはなるが、一方ではこれを免除した場合、マスクの着用有無がある種の可視的符号になり、それが差別につながる可能性も出てくる。

 その差別を避けるために、不当にマスクを着用しない未接種者が出てきた(必ず出てくるだろう)場合、感染のリスクを逆に高めてしまう。そのうえ、マスクの未着用者の該当グループ(接種ステータス)を誰が検査・管理するのかという問題も出てくる。自警団的な世間になれば、社会の分断が一層深刻化する。

 さらに、たとえば、ワクチン接種率が未達の場合、あるいは達成してもなお感染が収まらない場合、接種グループが怒りを未接種グループにぶつけることも容易に想像できる。これは公衆衛生の次元を超えて、社会問題、政治問題ないし国際問題にも発展し得るだろう。

 まだまだ、問題がある。たとえば、1回の接種で止めた(あるいは2回目の接種を待っている)グループと2回接種したグループをどう区分するのか。さらにコロナの変異や進化により、ワクチン接種が3回目、4回目へと常態化した場合、接種済みと一口いっても、その回数や現在有効性など様々な状態にあるわけで、1つの接種グループとして扱えなくなる。接種グループ自体の分断も想定されなければならない。

 そうした意味で、ワクチン接種さえすれば、ことが済むと考えるには、短絡的すぎる。ワクチンがコロナの苦難から逃れるための唯一の手段であると、現在多くの国や人がそう捉えているようだが、果たしてそうなのか。再検討する必要もあろう。

タグ: