なぜ、私は投票に行かないのか?

 今朝、クアラルンプールの日本大使館に連絡して衆議院投票の予約をキャンセルした(コロナ期間中、投票も予約制になっている)。私は一貫して「投票に行こう」派でほとんど無欠席だったが、今回だけは熟考した末、棄権を決めた。その理由をいおう。

 まず、「投票したい候補者がいない」ときは、消去法的に他者と比べてマシな人に票を入れるというのが基本原則である。これはいわゆる「相対評価」で、悪のグループのなかでも「最悪」を消去し、「次悪」を選ぶという方法。それはそれで間違いない。まさにその通りだ。

 ただ、私の場合、「絶対評価」も併用している。つまり自分が引いた最低ラインという絶対基準があって、それをクリアしないと話にならないということだ。いってみれば、最低ラインをクリアしたなかから次悪を選ぶわけだ。しかし、今回はこの最低ラインをクリアした候補者はいなかった。すると、結果は「全員消去」になる。

 次に、浮上する選択肢は、白票投票だ。これは賛否両論で、白票を投じるのも一種の意思表示だと主張する人もいる。私は、それは一種の自己納得、自己満足だと思っている。法的に、白票は無効票であり、カウントされないので、何ら意味もない。唯一の効用は、投票率を上げることだ。

 さらに、投票率を上げることに意味があるかというと、若干ある。しかし、私の中ではそもそも今回の選挙そのものを消去法によって否定したのである(申し訳ないが、いろんな理由で私はそう感じた)。すると、投票率も何も意味がなくなってしまう、私にとっては。

 最後に、私益の問題。

 その1、マレーシアでは、私のようなワクチン未接種者には厳しい行動の制限が敷かれている。クアラルンプールの日本大使館へ向かうために、地域を越える必要がある。私は一計を案じた。大した病気はないが、大使館の近くにあるプリンスコート病院へ通院するついでに、大使館に立ち寄る方法だった(通院は特例として許されている)。ややグレーゾーン的なところ、完全納得したわけではない。

 その2、時間コストの問題。大使館まで往復する数時間の機会損失が生じる。その数時間からもっと大きな価値を生み出すことができるからだ。

 その3、個人的な利益からいえば、事業基盤は海外に設けられているため、日本国内の政治によって影響されることはほぼない。

 選挙に先立って、累計12時間以上の時間をかけて、各政党や選挙区全候補者の政策を読み込み、党首討論も視聴した。その時間は無駄だと思っていない。その時間を投入したことから、上記の結論を導き出したのであるから、まったく無駄ではない。祖国に対する責任の一端を担うとまで偉そうにいえないが、些細な心の安らぎを得た。無論これも私益だ。

 申し訳ない。今回の選挙、私は棄権する。

 どのような資本主義にするかという選挙なら、私は喜んで投票する。それは生き方を選ぶ投票だ。
 資本主義にするか社会主義にするかという選挙なら、私は必死になって投票する。それは生きるか死ぬかを選ぶ投票だ。
 どのような社会主義にするかという選挙なら、私は絶対に投票しない。それは死に方を選ぶ投票だ。

 今回の総選挙は、死に方を選ぶ投票だ。

 今回の総選挙が日本を変えるというが、日本は既に変わった。今回の総選挙は日本の変え方を決める選挙に過ぎない。私は変えることを受け入れられない以上、変え方には投票できない。

 独裁の社会主義国家よりも、投票できる社会主義国家のほうがよほどタチが悪い。資本主義を取り入れる社会主義よりも、社会主義を取り入れる資本主義のほうがよほどタチが悪い。中国と日本のことを言っている。

 政治で社会を変えるよりも、哲学で自分を変えたほうが、はるかに手っ取り早い。幸せになれる。

<次回>

<注>本記事は、あくまでも私自身の話にとどまり、他人の意思決定に影響を与えるつもりはまったくありません。

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