真を語れない社会、逃げ遅れる人々の真

 「真・善・美」というが、世の中、多くの真は、善でもなければ、美でもない。そうした真は基本的に、語ってはいけない。語った者は異端扱いされ、排斥される。

 世の中、大方の人が見たくないこと、聞きたくないこと、知りたくないことを見せたり、聞かせたり、知らせたりしてはいけないのだ。だから、政治家も識者もメディアも、大衆の見たいことを見せ、聞きたいことを聞かせ、知りたいことを知らせるのである。真の欠如したところ、あたかも真であるかのように飾り立てる技術ないし芸術が発達し、修辞学も標準化されたのである。

 状況が悪化したところ、「最悪」といわずに、「これまでに見たことがない」という表現を使う。なす術がないところ、「仕方ない」という客観を「しっかりやる」という主観に取って代わらせる。案の定、結果が最悪だった場合、「想定外」「努力を尽くした」という前置きを動員し、「残念だ」と詩的に結論付ける。

 すべてが完璧だ。善と美で真を葬った

 政治家も識者もメディアも、みんなが馬鹿ではない。みんなが真を知っているにもかかわらず、知らんぷりをしているだけ。大衆から馬鹿にされても、馬鹿なふりをして美辞麗句を語り続ける。彼たちはみんな知っている。本当の馬鹿は、大衆なのだ。

 このいわゆるエリート層のなかには、真を語る人がいないわけではない。だが、下手に真を語ると、「上から目線」と糾弾されるのがオチ。現に上下の関係が明白なのに、上から目線を嫌い、排除し、道徳的に批判する連中がいる。「上から目線」とは人を見下し、馬鹿にすることだ。だって、馬鹿、愚民なんだから。

 私が繰り返してきたように、問題の根源は大衆にある。無論全員愚民ではない。大衆の中にも賢人がいる。彼ら(賢民層)は黙って自己防衛に徹している。結局のところ、善と美にいつまでも固執する大衆の愚民層がいちばん損をする。誰のせいといったら、自己責任だろう。それもダメ、自己責任を引き受けたくないのはまさにその層。

 地獄は善でもなければ美でもない。しかし、地獄は真である。

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