東京五輪は開催すべきか?損得の計算と最適解

 明日(7月23日)開会式が予定されている東京五輪。賛否両論があるなか、いったい開催すべきだろうか。思うに答えは2つ、イエスでもあり、ノーでもある。

 私自身も、2つの答えを抱えている――。

 コロナの拡散は勢いを増し、第5波がやってくるこの現状をみる限り、開催中止が唯一の正解といってよかろう。どんな理由があろうと、公衆衛生の立場からすれば、開催するよりは開催しないほうが安全だということは火を見るより明らかだ。そこであえて開催するという選択を取るなら、そのメリット(利益)がデメリット(リスク・損失)を上回る必要がある。つまり、損得の計算だ。

 問題はここからだ。損得の話ではあるが、同一当事者であれば、単純に損得を天秤にかけて議論すればすむことだが、しかしそうでないとき、問題が複雑化する。問題の本質は、損得の計量(What)ではなく、損得の当事者(Who)にある。

 五輪支持層は、「今だからこそ、団結が必要だ」と呼び掛けている。それは、利害関係(損得)の当事者が分断している(団結できない)ことを示唆する証だ。世の中、「団結」が叫ばれるときは、だいたいそういう場面である。利害関係の分布(異なる当事者)をみれば、納得するだろう。

 「夢と希望と感動、勇気を与える」と、菅首相が呼び掛けている。

 「夢・希望・感動・勇気」は、正の意味であるが、ただ性質的に2種類ある。1種類は、正常な状態(ゼロ地点)から正方向に向かうもの(例:健康な人がスポーツする)であり、もう1種類は負方向から正常に向かう(戻る)もの(例:患者が病気を治す)である。

 菅首相が言っているのは前者。しかし多くの日本人が求めているのは後者、物理的にコロナ地獄から脱出し、正常なニュートラル状態に戻るためのロードマックである。政治家はその際に往々にして当事者の細分化をぼかし、一般論的正論を持ち出す。

 美辞麗句の意味におけるギャップは、今回の場合、ここにとどまらない。「夢・希望・感動・勇気」の源である五輪が、負の状態(コロナの拡散)をさらに悪化させる恐れすらある。利益相反が問題の本質なのである。

 しかし一方、もう1つの答えものぞいてみよう。菅政権にとってみれば、五輪をやめたら100%の負けだが、1%の勝算だけでも開催に賭けたほうがいいというのが、最適解になる。これだけ酷い状況下で五輪を成功させれば、それは莫大な政治的レガシーになる。もし、私が東京五輪のコンサルに関わっていたら、正直に言って、開催決行と進言していただろう。もちろん、できれば、有観客。

 さて、コロナ下における五輪成功のベンチマークは何かというと、開催期間中にアスリート・大会関係者の大規模な交差感染医療崩壊を回避さえできれば、それでいい。ある程度の市中の感染拡大は想定内でやむを得ない。

 尾身氏が開催期間中に東京の感染者が3000人規模になるかもしれないといっているが、それはどうでもいいことだ。上記2つのことにフォーカスしてクリアすれば、大会は成功する。ただ前例踏襲を得意とする日本人にとってこのマネジメントは、至難の業だ。前例がないからだ。

 実務的には、「大会途中にも中止の可能性がある」とにおわせながら、最大限にねばる。できれば、閉会式までねばる。賭けといえば、賭けである。世紀の賭けといっても過言ではない。むしろ、この辺は善悪を抜きにして考えたほうがいい。それは私が2つの答えをもっている理由だ。

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