「分断」と「協調」、どっちが怖い?

 最近、社会や政治を語る際に、「分断」という言葉が多用される。社会の分断を危惧し、「協調」を呼びかけるのが、ファッションと化している。我が国の岸田首相もそのファッションモデルの1人である。

岸田文雄公式サイトから

 一方、「多様化」というファッションもある。これは紛れもなく現今世界の共通善となっている。さて、「多様化」と「分断」はどう違うのか?まず、用語の定義を明確にしてほしい。

 多様化したところで、その結果として分断することもあろう。分断を否定するなら、多様性も否定されてしまう。いや、だから「協調」が必要だと言っているのではないかという反論が出るだろう。

 では、「協調」とは何か。AとBの間にいい具合に中間地点があれば、何とかそこを落し所にしようというのができるのだが、中間地点がないことも多々ある。たとえば、ワクチンを打つか打たないか、中間地点がないのだ。

 そこで、いきなり「反ワクチン派」(さらに「陰謀論信者」とも)というレッテルが用意される。ワクチンを打たない人は必ずしも「反ワクチン」ではない。今この時点、この状況の下では、様子見をしたいというような立場はまさに、多様性の1つではないか。

 ワクチンに関して社会が分断されたというなら、では「協調」の具体像とは何だろうか。そもそもワクチンといえば、1億人がみんな腕をまくって差し出すほうが怖いと思わないか。全体主義国家以外のなにものでもない。

 「協調」といえば、中国・胡錦涛時代の「和諧」政策を思い出す。「和諧」(わかい)とは、「調和」「協調」を意味する。元々中国語の名詞だったところが、いつの間にか動詞に変わり、「被和諧」という造語ができた。「調和させられる」「協調させられる」という意味だ。

 世の中、美辞麗句ほど怖いものはない。多様性が分断に至ってはいけないから、協調させられることを日本人が受け入れるべきだろうか。この問いに対して異なる答えが出るのも多様性であり、それも協調対象にされるのだろうか。

 思うに、分断があるとすれば、多様化の結果であり、多様化を認めるなら、分断も認めるべきであろう。

 全体主義が見え隠れしたところ、「協調」が「分断」よりはるかに恐ろしいものである。

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