ウクライナ戦争関連記事、私に対する非難について

 ウクライナ戦争について、私の投稿記事・言論に対してSNSでは一部批判の声が上がっている。

 何事も、「法」「理」「情」という3つのレベルがある。

 まず、「情」――。ウクライナ紛争で多くの罪なき市民が犠牲になり、痛ましい出来事である。という「情」は、すでに怒涛のように語られているため、私はあえてそれ以上情緒的なコメントを加えないことにした。

 次に、「理」――。なぜこのような戦争になったのか?その背景や経緯、国家の指導者として国家に対する責任、政治的判断・意思決定、さらに戦争・アンチ戦争の遂行にあたっての戦略戦術、こういった「合理性」について、当事者目線・当事者の内在的論理も含めて、私は考察してきたし、これからも考察していく。

 最後に、「法」――。国際法次元では、当事者関係国が争うものであり、司法の判断に委ねられている。NATOやEU加盟国等はそれぞれの条約等に基づき、いくぶんの政治的要素(これは上の「理」の次元になるが)も折り込み、意思決定が行われている。

 「情」は熱い、「理」は冷徹だ。私は「理」にフォーカスしたうえ、冷たく、無情さが際立って感じられることも当然ある。そういった意味で、私の記事、ないし私自身に対して反感ないし嫌悪感を持たれることも多々あろう。

 私は、人によく見られるために自分自身を修飾しようと思わない。なので、SNSの皆さんにもぜひこれを理解してもらいたい。私に違和感や嫌悪感を持たれる方は、ぜひ、友人解除・ブロックしてもらいたい。

 「法」「理」「情」の話について、補足しておこう。

 世の中は、「情」ですべての問題が解決できたら「理」は要らない。「理」ですべての問題が解決できたら「法」は要らない。では、「法」をもって問題解決できなかったら、どうする?「暴力」しかない。

 「法」というのは、いまの「実定法」ができる前に、「自然法」があった。要するに自然の摂理に従って、「力」で問題解決する。これは良し悪しの次元ではない。

 国際社会に国際法というのがあるが、しかし判決・裁決には強制力が伴いない。最終的に当事者の「力」に委ねられているのが現状である。国家とは何かというと、暴力装置。国際問題の最終的解決方法は、暴力にほかならない。外交手段というが、その終着駅は戦争。これが現実だ。

 平和希求は、「希望」「追求」であり、つまり「べき論」であって願望である。平和とは、長い世界史のなかで断片的かつ偶然的な出来事にすぎない。平和希求を持たない者はほとんどいない。では、なぜ戦争がなくならないのか。それは戦争が平和実現のための最終手段だからである。

タグ:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です。