LGBTQ全盛期、米国発の新文化大革命には毛沢東も真っ青

 LGBTQは、人権や自由の範疇である。これには賛同する。ただ人権や自由は、他人に迷惑をかけたり、損害を与えたりしないという制約を受ける。女性トイレに自認女性の怪しい者が入って困惑する女性がいるならば、それはすでに他人の権利を侵害していることになる。

 つまり、自由の行き過ぎだ。では、どう解決するか。トイレの問題を例に考えよう。男女トイレと身体障害者トイレのほかに、LGBTQ専用トイレをつくったほうが無難。しかし、4種類のトイレを整備するには余分のコストがかかる。そのコストは誰が負担するのか。

 立法。一定規模以上の施設にLGBTQトイレ設置を義務化するのは1つの方法。それに国や地方が一定の補助を出すのも悪くない。コスト(補助の場合は税金)がかかってしまうのは致し方ない。民主主義にはコストがかかるものだ。ただ問題が解決したわけではない。障害者トイレは異論が出ない。それは障害者が医学的行政的認定を受けられるからだ。しかし、LGBTQのなかに自覚に基づく自己申告ベースが多い。それでもめるわけだ……。切りがない。

 LGBTQ問題に限らずあらゆる差別問題において賛否両論の戦いが激化すれば、ますます社会的分断が進む。そこが見所。「闘争」「分断」を好み、そこから利益を得る者は誰だ?左翼社会主義者だ。

 マルクス主義は、「階級闘争」の理論が伝家の宝刀であった。マルクス時代の社会主義者は、分断された無産階級(プロレタリアート)と資本家階級を戦わせ、政権を奪取した。

 社会主義者が政権の座に就くと、階級闘争が消えたはずだが、それは消えたら困るのは社会主義特権階級なので、毛沢東いわく「階級闘争を忘れるな」と、人為的に「人民内部矛盾」と名付けた対立集団を作り出して、引き続き戦わせるわけだ。文化大革命はまさにそのクライマックスであった。

 とりわけ今の先進国においては無産階級が絶対少数になり、大衆はみんな「有産階級」になった。そうすると、毛沢東の真似をして新たな対立層(グループ)を作り出す必要が生じた。分断と闘争を引き起こすには、「差別」という燃料を活用する。あらゆる差別を「見える化」すれば、簡単に人間同士は分断して戦うのだ。

 同質化したフラットな社会になればなるほど些細な「違い」でも「差別」と認知されやすい。不満をもつ多くの人には「差別された」と被害者意識が芽生える。そんな彼・彼女たちは、同病相憐れむとLGBTQ側に立ってレインボーカラーの旗を振り始める。

 資本主義も社会主義も、自由民主も独裁専制も、人間の本質は変わらない。嫉妬、被害者意識から不満が生まれ、それが分断につながり、闘争の燃料となる。結局のところ、民主主義が行き過ぎたところ、左翼社会主義者が出てきて、闘争を煽るわけだ。毛沢東理論の焼き直しに過ぎない。いや、かなりバージョンアップされた。

 今のアメリカは、イデオロギー的にはすでに社会主義国家である。民主主義や資本主義のカモフラージュを被っているだけに、毛沢東よりも欺瞞性に満ちており、さらに悪質である。

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