変節か?私が中国を擁護しているそれだけの理由

 私が最近あたかも中国を擁護するかの言論が多いと、不審に思っている人もいるかと思うが、説明しておこう。

 まず、私は中国政府から一円たりとももらっていない。彼たちのプロパガンダ代理人ではない。思うに、批判と擁護が共存しても何ら問題もないし、逆に一辺倒でなく、多面的に捉えるべきだ。

 私は、中国のイデオロギーでなく、反米でアメリカと戦っているところを擁護しているのだ。日本には到底できないことを中国が代わりにやってくれている。そこを擁護、支持したい。

 中国の一党独裁・専制を本能的に嫌う人が多い。正直にいって、私もその1人だった。しかし、ここ数年、特に2020年トランプが落選してからのこの2年、民主主義と独裁専制の間にある共通点が徐々に見えてきた。それは全体主義である。

 民主主義と独裁専制はあたかも対極であるかのようにみられるが、実はそうではなかった。民主主義はいわゆる独裁専制を否定し、批判し、撲滅しようと一元化を目指すところで、すでに民主主義の「多様化」原則に反し、独善的になっている。民主主義の一元化それ自体が一種の独裁である。

 独裁専制は少数による独裁だが、民主主義は多数による独裁である。民主主義は、LGBTQ性的少数者を容認し、彼たち、彼女たち、彼でも彼女でもないたちの権利を拡大しようとしているが、ではなぜ非民主主義の存在を否定するのか。それ自体もダブルスタンダードである。

 中国が独裁をやめて欧米式の民主主義になったら、アメリカは中国と仲良くできるのだろうか。インドをみればいい。正真正銘の民主主義国家であっても、ウクライナ戦争の一件、ロシアとの関係でアメリカの意思に逆らったら叩かれたのではないか。

 アメリカはインドに向かって「あなたたちは歴史の間違った側に立つな!歴史の正しい側に立て」と訓示した。民主主義であっても、正しい側と間違った側がある。アメリカが立っている側は常に正しい側だということは、独裁以外の何ものでもない。

 結局、唯我独尊、アメリカの意思による世界独裁である。

 民主主義になれば、選挙が行われる。選挙があれば、アメリカの傀儡をトップの座に押し上げることも可能になる。しかし、独裁国家では、それができない。選挙不正も然り。選挙がなければ不正もできない。

 人権やら民主主義やらただの言い訳に過ぎない。まして中国のような国が民主主義になったら国家がまとまるまで10年どころか30年や50年はかかる。その間は国が大混乱に陥る。その混乱に乗じてアメリカは世界独裁者の座に上り詰める。さらに「民主主義中国」に米国傀儡政権をつくることもさほど難しくない。

 中国やロシアをはじめ、イラン、イラク、シリア、ベネズエラ、北朝鮮などアメリカに頭を下げない国々は、すべて独裁やテロ支援国と規定され、批判ないし打倒対象にされている。私はこれらの国を称賛しているわけではない。アメリカの対立面に立っているという共通点を言っているだけだ。

 では、世界が民主主義国家一色になったら、バラ色の将来が待っているのだろうか。気が付いたら、それ自体が共産主義と同じ描き方ではなかろうか。

 だから、政治体制は単なる言い訳にすぎない。結局、国家統治者の欲望は世界統治者になることである。それをどう抑止するかというと、同じ欲望をもつ対立国(グループ)の共存と牽制にほかならない。そうした意味で、中国やロシアの存在が必要なのだ。善と悪の判断をいったん忘れることだ。

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