立花の予測、「ゼロコロナ」解除後の中国はどうなるのか?

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 中国の習近平政権は民意に押されて、「ゼロコロナ」政策を解除したとすれば、いささか民主主義の勝利といえる。一方、今後コロナが再燃し、酷い状況になった場合、国民は自己責任を負わなければならない。

 民主主義の「自由」は常に「責任」が伴う。これを忘れてはいけない。

 アメリカと同じ死亡率で中国の人口から逆算すると、すでに400万人以上がコロナで死んでいる。しかし、実際の死亡者は、わずか5300人弱(22年12月現在)。助かった400万人の命は重い。民主主義の「人権」論理で解釈すれば、「ゼロコロナ」政策の正当性は無視できない。

 私が繰り返してきたように、「ゼロコロナ」は、感染者を「ゼロ」にするのではなく、感染者や死亡者の「ゼロの桁」を減らすための政策だ。

 民主主義の大義名分がよくても、自己矛盾、二重基準、非論理性の世界に陥れば、笑われる。今後の「ゼロコロナ」なき時代に状況が悪化すれば、逆に「ゼロコロナ」政策の正当性・正確性が証明される形になる。その時点で「ゼロコロナ」政策が再導入されても、誰もが文句を言えない。

 さっそくも一部の西側メディアはすでに「これから中国のコロナ再燃は不可避」類の論をぶち上げている。自己矛盾に気づいていないか。「ゼロコロナ」をやってもやらなくても、中国共産党政権をとにかく全否定する。というのは、確実に民主主義ブランドの信頼性を壊すだけだ。

 中国人でも全員が「ゼロコロナ」に反対しているわけではない。むしろ「ゼロコロナ」政策の解除を受け、状況の悪化を懸念している人も多い。その層は高齢者や富裕者が多く占めている。つまりお金を握っている層は規制解除で一気にリベンジ消費に乗り出すかというと、必ずしもそうではない。だから、経済の回復、特に第三次産業の回復は限定的で、明暗が分かれるとみていい。

 コロナ規制は、国家による画一的な他律から、国民の自律に移行した時点で、国民は「自律層」「非自律層」に分かれる。狂喜乱舞する「非自律層」はおそらくお金を大して持っていない若年層中心ではないだろうか。経済の活性化への貢献が限定的で一時的なものだと言っているのもそのためだ。

 習近平政権はここのところ、第三次産業(虚業)から第二次産業(実業)への逆移行に力を入れてきた。米国の「再工業化」とはまったく同じ趣旨だ。実業をなくして国家の繁栄はなしという本質を米中ともに見抜いたからだ。なので、第三次産業の縮小は時代の要請に適合している。

 抑圧的なムードに耐えられない中国人富裕層の間では、海外移住が密かなブームになりつつある。馬雲(ジャック・マー)氏が箱根の豪邸で悠々自適な暮らしを送っているのも、そのトレンドを如実に物語っている。

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