大衆の愚と暴走、反民主主義じゃダメですか?

 大衆、民主主義の暴走。私のフェイスブック投稿にこんなコメントが寄せられた。

 「蟻には蟻の生き方がある。踏み潰される寸前まで幸せであればいいのだと。その層は学べと言っても永久に変わらない。ただ蟻の権利を拡大させすぎて蟻の意見が人に届くようになり、人と蟻の生活を左右する重大な社会の意思決定に参加するようになったのが問題かと。これを変えるには独裁者誕生からの制限選挙に持っていくしかないと思っている。今の選挙制度ではどんなに優秀な候補者が出てもどうにもならない」

 民主主義の暴走を克明に描いてくれた。

 蟻という名の「大衆」は、無知である。無知だけでは無害だが、己の無知を知らない、学ぼうともしない、ソクラテスいわく「無知の知」をもたないまま、つまり無知かつ無思考のまま、民主主義政治に参加してしまっている。それは、間違いなく、有害である。非常に、有害である。

 プラトンは、劇場支配制という表現を使い、民主主義は無知で貧しい人々に迎合することで善良な統治を破壊する、見かけ倒しの発明だと指摘した。大衆が無知のまま政治に口を出す資格を得ることで、政治家は美辞麗句で公共の利益を気取りながら、大衆をそそのかし、特権階層が莫大な利益を手にする。民主主義とは、表向きは民が主になって支配しているように見えても、実際には民が主に支配されている偽りの政治なのだ。

 私がかねてより指摘してきたように、民主主義も独裁専制も「支配と被支配」という本質は共通している。形態が違うだけで、民主主義のほうがより偽善に満ち、ある意味で独裁専制よりも悪質である。そういう意味で、反民主主義も1つの選択肢になる。ダメですか?

 民主主義は多様性と包摂性を謳っている以上、反民主主義の主張があってもよかろう。さもなければ、民主主義が独裁専制そのものではないだろうか。

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