「誤解を与えて申し訳ない」、それは謝罪になるのか

 「誤解を与えて(させて、招いて)しまい、申し訳ありません」。――最近の日本人がよく使う謝罪の文言。

 「誤解」とは、相手が「誤って理解する」ことで、場合によっては相手の「理解力」の欠乏を指摘する意味も含まれている。私としては、「誤解」の使用を慎むべきだと考えている。「誤解」があったとすれば、その元はこちらの「誤った表現」、「誤表」にあるわけだから、その辺を掘り下げてみる必要が出てくる。

 この場合、「量」で「質」を検証する――。

 たとえば、事実・意見を述べるAさんの表現がBさんに誤解を与えたとしよう。では、同じ状況におかれ、同じ表現を聞いた10人中に誤解したのはBさんだけだったら、それはおそらくBさんの理解力に問題があるとみてほぼ間違いないだろう。その場合、Aさんにとっては、Bさんのような人にも正しく理解できるように意思伝達の表現力をさらに高めるべく、努力する余地があるといえよう。

 10人中にAさんの言説を誤解する人数が増えれば増えるほど、相手の「誤解」問題よりも、Aさんの「誤表」問題が正比例に大きくなる。いよいよ10人中の大多数、あるいは10人全員が誤解したならば、それはどういう問題なのだろうか。概ね分けると2つの可能性がある。

 1つは、「正しい情報を正しく伝達できない」という言葉、表現力の問題。言ってみれば、Aさんの資質の問題である。私が繰り返してきたように、外国語云々よりも、日本人はまず日本語を正しく使える力を身につけよう。それはつまり、相手に正しく理解してもらうためのスキルである。

 もう1つは、「無意識的に、あるいは意図的に情報に加工を施し、相手に暗示をかけて自分の望む方向へ誘導する」という厄介な問題だ。特にプロ・専門家の言うことだから間違いないという先入観をもつ一般の人は、そののような暗示に誘導されやすい。いわゆる無思考的な「鵜呑み」状態だ。

 問題が露呈した場合、Aさんは「誤解を与えてしまい、申し訳ありません」と空気を吸うように謝罪し、事なきを得て逃げる。

 人は空気を吸うようにウソをつくというが、そこには悪意があるわけではない(2019年5月10日付「President Online」)。同じように、空気を吸うように人に誤解を与えるのも、悪意があるわけではない。すると、謝罪も形式的で重みも何もない。逆に謝られてもなお追及するほうが悪い人間になってしまう。

 日本人は、すぐ謝る。だからこそ、謝罪そのものが軽薄化してしまう。謝罪は、決して簡単なことではない。なぜ間違ったか、どこが間違ったか、「誤解を与えた」ならば、どのような誤解を誰にどのように与えたか、そもそも「誤解」とは何か、一つひとつ追及しなければならない。これが本物の謝罪だ。

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