「言った」「言ってない」「話が違う」、トラブルを避けるために

 「言った」「言ってない」「話が違う」。日本国内の身内にもめ事の前兆があったので、先日、私からオンライン家族会議を招集した。会議後に、私から会議の議事録と合意事項をまとめ全員に配布したら、「怖い」という反響があった。

 私は「法」「理」「情」に分けて物事を論ずるので、「法」と「理」の部分の冷徹さを感じられたことだろう。それでお互いの「和」が損なわれるのではないかという懸念が生まれたようだ。「和」とは何か?表面的な部分だけか。

 会社もそうだが、ミーティングの場では意見をはっきり言わない。後から陰で私的な会話でこそこそと問題にしたり、もめたりするのが日本人の陰湿なところだ。結局、それで当事者間の不信感や対立ないし紛争を招き、逆に「和」が損なわれてしまう。身内にも同じことが言える。

 ここで、私が作成した議事録の冒頭に掲げられたコミュニケーション・ルールの一部を公開しよう。

 「メンバーは本会議・議事録の内容に対して、『補足』『修正』『質問』『異議」のいずれか(併記可)の要望があれば、本議事録受領後14日以内に書面(メール)で会議主席に提出する。…要望送信者は、要望内容については、その背景、経緯、理由、合理性、必要に応じて合法性(法的根拠等)を明記したうえで、提出するものとする」

 「メンバー間の私的な会話や情報伝達によって誤解や不信を招きかねないことから、メンバー全員にかかわる議題等は必ず、全員共有ベースとする。重要な内容については、メンバーは原則書面で述べるものとする。陳述は『Who, When, Where, What, Why, How』という『5W1H』ルールを守り、『事実』と『判断』『意見』に分けて行うものとする」

 このようなルールづくりで、「和」が損なわれるのなら、その「和」はあまりにも虚しい。「和を尊ぶ」。日本人の「和」には、3つの問いが欠落している。

 1. 「和」とは何か?
 2. 「和」は目的か手段か?
 3. 手段なら目的は何?

 「和」とは何か?孔子いわく「君子和而不同、小人同而不和」――。君子和して同さず 小人は同して和さず。君子(優れた人間)は協調はするが馴れ合いはしない。小人(くだらない人間)は馴れ合いはするが協調はしない。

 私の問いには、フェイスブックでこんなコメントが寄せられた――。「戦前、戦争直後の日本は和を手段としていた。現在は目的としている人が増えた。…日本人は自分の中の弱さや悪を認めることができない。あるいは目を向けられない」

 まさにその通りだ。身内のもめ事の9割以上がお金のこと、権利と義務のことである。しかし、誰もがそれを明言したくない、直視できない。自分だけが「悪人」になりたくないから、表面的な「和」を求めようとする。それは無知か偽善でしかない。

 お金を払うことは、「義務」に基づくか、「権利」に基づくかがもっとも基本的な問いだ。「義務」とは払わなければならないお金だが、「権利」とは払うか払わないかいくら払うかを自由裁量で決められるものである。レストランでいえば、食事代の支払いは「義務」だが、チップの支払いは「権利」になる。

 明確に境界線を引く(物事をはっきりさせる)。これは後日のトラブルを回避し、最終的な「和」を確保するうえで欠かせない手段である。

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