「MeToo」もLGBTも、本質は同じ

 「MeToo」も、LGBTも、本質は同じ。いずれも、白左、米国西側が作り出した社会的「分断」と「対立」だ。その特徴は、いわゆる人権を盾にし、「誰もが反対できない」ポリコレだ。

 「MeToo」の「Too」は、各々の事案の複雑な背景や経緯をスキップして乱暴な「一括り」で完結する。意図的に「被害者集団」という「層」を作り出す。

 繰り返してきたが、マルクスの「階級闘争」V2.0だ。「MeToo」に関しては、(準)密室環境、事後、特に長期間の時間経過による立証困難だけでなく、事情の変化や女性の心境の変化などで、司法判断ができない事案がほとんどである。一例を挙げると、枕営業に失敗した女性が事後に反故にし、男性へ報復を仕掛ける場面も想定できる。

 ――だが、上記のような議論を持ち出すだけで、女性の「二次被害」でまたもやポリコレ棒に叩かれる。民主主義は名ばかりで、議論すらできない。民主主義はすでに全体主義にハイジャックされた。司法判断できないから、社会的道徳法廷で「加害者」が大衆裁判に裁かれる。これは、中共の文化大革命V2.0である。

 民主主義下の西側社会が融和したのだろうか。大衆の分断が進む一方、支配者階級は高笑いし、来る日も来る日も特権階級のラグジュアリーな暮らしをエンジョイし、我が世の春を謳歌している。

 民主主義も独裁専制も統治形態の違いに過ぎず、統治の本質は同じである。独裁が腐った肉ならば、民主は腐った魚だ。肉と魚に違いがあっても、腐ったことは一緒だ。

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