「大衆」とは何か?オルテガの「大衆の反逆」の主旨に基づき、一部、私自身の解釈も加えながら、「大衆」の性格や特徴を以下にまとめる。
(1) 標準化・平均化された人々である。個性が乏しく、集団的な行動と画一性を好み、他人と異なることを恐れる。
(2) 洗脳されやすく、深く考えず、与えられたものをそのまま受け入れ、批判的思考が欠如している。
(3) 「自由」を求め、「権利」を要求する一方で「義務」を果たすことを避ける。
(4) 社会契約や責任から逸脱し、「すべてが与えられて当然」と感じ、努力や自己改善の意識を持たず、社会を享受するだけだ。
(5) エリートの存在価値を理解できない。見える範囲内のエリートや先進組に妬みをもち、引きずりおろそうとする。
なぜ、民主主義下の大衆が危ないか。これも同様に以下にまとめる。
(1) 自由とは、個人が責任を持ち、自律的に行動することで得られるものであり、大衆の無責任な行動はその基盤を脅かす。
(2) 大衆の増大は国家の権力集中を招き、民主主義の名のもとに、大衆が国家に依存しすぎると、権威主義的な統治が容易になる。大衆が統治の基盤を作りながらも、その実態が彼らの意図から離れてしまう。
(3) 民主主義は、平均化、集団化、無思考、洗脳受容性、自由・権利嗜好性、無責任、国家依存、妬みに基づく闘争心といった大衆の性格と相性が抜群によく、これらをフルに利用し、特権階層支配者は独裁による利益を貪っている。
(4) 民主主義は名ばかりで、大衆を利用した独裁権威制度である。
(5) 大衆社会が続く限り、文化の衰退や人間性の喪失が進み、創造性や高度な知的活動が失われ、社会全体が凡庸化する。
結論その1、パラドックスだが、民主主義は、独裁専制によってではなく、大衆によって滅ぼされる。支配者は、民主対独裁という対立を虚構し、大衆を含む被支配者層の矛先を転移する。
結論その2、大衆化社会を変えられなくても、個人ベースの「脱大衆化」が可能であり、オルテガが提唱する「個人の覚醒」や「教養の必要性」を実践すべきである。