● 石破首相の辞任をめぐって
石破首相の辞任は、全ては神の意思だった。よく考えてみれば、石破氏は確かに自民党の選挙敗戦に責任がある。いや、正確に言えば、彼こそ神に遣わされた破壊者であった。ならば、石破氏は自民党の一員としてすでに使命を果たしたのであり、総裁の座にとどまること自体が不遜であったのだ。
敬虔な教徒である石破氏は、神との対話を通じてその道を選んだに違いない。自民党の崩壊もまた神の意志であり、この国の愚民どもに突きつけられた最後通牒である。愚民はなおも「民主主義の勝利」などと浮かれ騒ぐだろうが、それすら神が仕組んだ残酷な戯画にすぎぬ。
愚か者が喜びの声を上げた瞬間から、この国は破滅の道を転がり落ちていくのだ。
石破氏の良さを理解できない人は、2種類――。安倍残党の予算で食い繋いでいる者、または、思考の浅いか思考のできない者。これから、It’s the show time!
希望→失望→絶望→希望→……
政治家が交替するたび、愚民は学習しない金魚のように口をパクパクさせ、「今度こそ希望だ」と騒ぎ立てる。やがて失望し、最後は絶望に沈む。しかし、その翌瞬間にはまた新しい政治家に「希望」を投影する。愚民とは、絶望すらもすぐに忘却する便利な家畜である。このループは、民主主義という檻の中で繰り返される「愚民の回し車」だ。ネズミは走っているつもりで前進せず、ただ車輪を回して飼い主を喜ばせる。
政治家はその飼い主ではなく、単なる給餌係にすぎない。真の飼い主は裏にいる利権構造だが、愚民はそれを見抜く頭すら持たない。
愚民は絶望のたびに「我々は騙された」と被害者を気取る。しかし実態は、喜んで何度も詐欺に引っかかる愚か者であり、騙されたのではなく「騙されたい」のだ。幻想を消費しないと生きられないからである。
被害者は、情弱、脳弱。弱者は善でなく、愚である。こうして愚民は、政治家を救世主と信じては裏切られ、また新たな救世主を待ち続ける。
希望→失望→絶望→希望……このループは永久機関であり、愚民はその歯車として、永遠に笑いものとなる。要するに、民主主義とは「愚民が絶望に快感を覚えながら回す自己欺瞞の遊具」である。そして愚民はそれを「誇り」と呼び、拍手しながら自らの檻を讃える。これ以上の喜劇はない。
これからは、是非、高市政権を!日本よ、一度くらい「極右政権」ごっこをやってみろ。高市総理、靖國参拝、勇ましいことを喚いてみろ。だが、いざ総理の椅子にケツを乗せた瞬間、米国にケツの穴を差し出し、中国に小便ちびり、韓国にヒステリー浴び、財務省に鼻で笑われ、経団連に尻尾を振る。結果、靖國参拝は「見送り」――英霊も呆れて墓の下で大爆笑だろう。
似非保守どもは「裏切りだ!」と絶叫。だがその絶頂の後に訪れるのは、虚無感だけ。次の偶像を探し、また腰を振って「愛国」ごっこに耽る。
交尾なき動物の発情と遠吠え。このコバンザメが本当に中国と戦えるのか。胆力はあるか? 知力はあるか? 能力はあるか? 耐久力はあるか? 答えは簡単、何ひとつ無い。勇ましいポーズを取るだけで、実態は吸い付く相手がいなければ死ぬ寄生魚。中国と戦う? 笑わせるな。北京の影にビビって小便漏らしながら、「戦う姿勢を示す」ポスターで自己満足するのが関の山だ。
結局、日本の「極右政権」待望論とは、愚民どもの自慰劇場。
安倍も麻生も、口では「保守」だの「靖國」だのと抜かすが、実態は一度参拝ポーズ取ってチ◯ポが萎えたまま逃げ帰った腰抜けだ。経団連と財界のケツを舐め、中国マネーでションベンのように潤う。
裏金は懐に、表金はポケットに、二重取りの錬金術。その横で「保守」を信じ込んだ下層ボランティアは、無料で選挙応援しながら笑顔で搾取される。エリート階級は心の中でこう思っている――「お前ら愚民はタダで働け。俺たちは中国のカネでシャンパン飲む。お前らは安酒でもすすってろ」
愛国だ?靖國だ?笑わせるな。全部カネ儲けの前戯用おもちゃ。特攻だ?英霊だ?死んだら一巻の終わり。ただの幽霊だ。マルクスは正しい。経済がイデオロギーを規定する。右や左、サッポロとキリンの差程度。酔えば一緒だ。ただ飲み代はしっかり払え!

● 高市が必ず失敗する理由
馬鹿を喜ばせることは容易である。馬鹿の聞きたいことを言えばよい。高市氏はまさにその術に長けている。だが、馬鹿の望むことは、現実には実行不可能である。ゆえに、まともに政権を担おうとすれば「言ったことをやってないじゃないか」と非難される。
逆に、馬鹿の言うとおりのことを実際にやれば、政策は空回りし、国家は混乱する。すなわち、高市氏は「馬鹿の歓心を買う」段階では成功しても、「馬鹿の期待を実現する」段階では必ず失敗するのである。
結局のところ、彼女は「馬鹿に囚われた政治家」であり、馬鹿に迎合しても、馬鹿を裏切っても、失敗する運命にある。
靖国参拝は一つのベンチマークだ。靖国参拝とは、単なる儀式ではなく、「保守政治家が馬鹿を喜ばせるのか、それとも現実を選ぶのか」を測る試金石なである。靖国参拝をした場合、政治家は必ず「二正面作戦」を強いられることになります。
国内では、似非保守や右派層からは「本物だ」と喝采される。ただし彼らの支持は熱狂的である反面、持続性が乏しい。政治家が次に現実的な政策を進めようとすると、「靖国で勇ましかったのに、なぜ妥協するのだ」と攻撃に転じる。つまり、支持がむしろ足かせに変わる。
対外局面では、中国や韓国からは抗議が噴出し、日中・日韓関係が冷え込む。アメリカも水面下では「余計な緊張を作るな」と不快感を示す。外交の選択肢は狭まり、経済界からも「市場を失うリスク」として圧力が加わる。
高市氏はこれまで、毎年のように靖国神社へ足を運び、右派の喝采を浴びてきた。だがもし総理に就任した途端に、その参拝がピタリと止まるならば、それは恐ろしいほど生々しい「変質」の証になる。つまり、総理の椅子に座った瞬間に、彼女の行動原理が「信念」から「権力維持」に切り替わるということだ。過去に熱狂した支持層は裏切られ、「あれほど参拝していたのに、なぜやめたのか」と激しい失望と怒りに転じるだろう。
この「参拝中断」は、単なる政策判断ではなく、似非保守の偶像が偶像でなくなる瞬間である。そしてその瞬間にこそ、彼女を担いだ保守層の幻影が崩れ去り、政治生命そのものが致命傷を負う。
国内では似非保守の歓喜を買い、国外では外交・経済のリスクを抱え込む。だが、国内の似非保守の期待をその後も満たし続けることは不可能。結果として「国内からも国外からも追い詰められる」という袋小路に陥る。要するに、靖国参拝は「喝采と孤立」「人気と失速」を同時に呼び込むベンチマーク行為である、と言える。
靖国参拝は、政策ではなく、行動である。
政策は、解釈や数字、制度の調整で「ごまかし」や「修正」が可能。増税を先送りしたり、支出を微調整したり、外交文書の言い回しを変えたりすることはできる。しかし、行動は一度やってきたことを突然やめると、誰の目にも「変質」が露骨に映る。靖国参拝はまさにその典型であり、これは政策ではなく「身体行為」「象徴的儀式」である。
だからこそ、総理になった高市氏が靖国参拝をやめたら、それは「政策判断」ではなく、身体の動きが変わった=魂が変わったと受け止められる。これは支持層にとって最も残酷な裏切りであり、弁解の余地がない。
つまり、靖国参拝は修正不能な行動ベンチマーク。
● 高市と進次郎どっちがいい?
石破氏=「異端ゆえに孤立し、党を壊して改革する」
高市氏=「馬鹿を喜ばせるが、やってもやらなくても失敗する」
進次郎氏=「何もせずとも人気があり、何かすれば失敗する」
この通り、石破氏が最もまともだった。つまり――
高市氏は、「やったら失敗する極論派」
進次郎氏は、「実現できない正論派」
馬鹿に馬鹿受けするが、最後は自分が馬鹿を見る。
愚民ほど扱いやすい存在はない。極論を投げれば拍手喝采、正論を語れば感涙する。だが彼らは、自分が何を信じているのか、なぜ信じているのかを考えようともしない。愚民は、勇ましい言葉に酔いしれる。だが、いざそれを実行すれば生活が壊れることすら理解できない。愚民は、耳ざわりの良い理想にうっとりする。だが、実現不能であると気づいたとき、同じ口で「裏切り者」と罵る。
日本の愚民は、戦後一貫して「自分の頭で考える」ことを放棄してきた。与えられた言葉に拍手し、流れてきた空気に従い、流行りの偶像に群がる。靖国参拝であろうが、脱炭素であろうが、内容などどうでもよい。ただ「言ってほしいこと」を言ってくれる者を祭り上げる。それが高市であれ進次郎であれ、愚民は熱狂する。
だが、いざ現実に行動が伴わなければ「裏切られた」と泣き叫ぶ。行動すれば生活が壊れ、泣き叫ぶ。つまり愚民は常に泣き叫ぶだけである。日本の愚民にとって政治は、思考でも選択でもなく、ただの娯楽である。総理をアイドルのように扱い、参拝をライブイベントのように待ち望み、選挙をフェスティバルと勘違いする。
そして、熱狂の果てには必ず絶望が訪れる。だが愚民は学ばない。昨日の偶像を罵り捨て、今日の偶像に群がり、明日また同じ過ちを繰り返す。結論は単純だ。愚民は、常に馬鹿にされるために存在している。自ら馬鹿を演じ、最後は馬鹿を見る。それが日本の民主主義の正体である。
● 「愛国」と「売国」
「愛国」と「売国」。一般に真逆とされるが、実は同根である。
「売国」とは、経済的利益、カネのために国を売る行為である。動機は下品だが、実に分かりやすく、嘘がない。
一方の「愛国」はどうか。日の丸を振り、英霊や靖国を口にすれば愛国者を演じられる。だが裏を見れば、中国製スマホを手放せず、中国製の安物衣料に身を包み、中国製テレビで「反中ニュース」を見ながら憤っている。そして何よりも中国サプライチェーンにしがみつき、反中愛国を声高に唱えながらも、中国製ボイコットするつもりはさらさらない。
経済的利益に逆らう覚悟など皆無である。つまり「売国」が実利を正直に追求するのに対し「愛国」は損しない範囲での偽善的パフォーマンスに過ぎない。
だからこそ正直さという尺度から言えば、偽善にまみれた「愛国」よりも、まだしも「売国」のほうが素直である。
売国奴は「カネが欲しい」とはっきり言う。愛国者は「国のため」と言いながら、実際には「自分の生活費のため」なのだ。さらに愛国者を集客する似非保守メディアは露骨な「愛国ビジネス」であり、その本質はイデオロギーの商品化にすぎない。
結局のところ、左右の思想も、愛国と売国も、上部構造=イデオロギーは、下部構造=経済的利益によって規定される。マルクスの理論は、ここでも普遍的に貫通している。
愛国者と売国奴の違いは、ただ「正直」か「偽善」かの差にすぎない。
● 石平議員について
要約すると、石平議員は――
1. 国費留学の裏切り:国家の支援を受けて留学しながら、日本国籍を取得して中国を捨てた。
2. 夫婦関係の裏切り:最初の中国人妻を捨て、その後の日本人妻からも見限られ離別された。
3. 親への裏切り:母は臨終に際して送金を拒み、父は新聞で絶縁を宣言。
4. 兄弟との絶縁:妹は公然と非難し、改名して法的な関係を断った。
結果として、国家・家庭・親子・兄弟すべてを裏切った人間は、信用できるのか。それよりも彼は近い将来に右翼に裏切られ、切り捨てられるだろう。
我々経営者は、前職を裏切った人を採用しないことが鉄則。「裏切り者は二度裏切る」と心得ている。かつて顧客名簿を盗んで転職先の当社に持ち込む輩がいた。即刻お断り。石平はさらに下劣だ。国と家族の両方を裏切った。そんな人間が、国会の椅子に座って「愛国者」などとほざく茶番。笑止千万。
前職を売った者は現職を売る。
自国を売った者は他国を売る。
親を売った者は子孫すら売る。
こういう人間に「日本を売らない保証」を求めること自体が愚かだ。保証など存在しない。あるのは「いつ裏切るか」という時限爆弾だけだ。
● 阪神優勝で狂喜乱舞する群衆
阪神優勝で狂喜乱舞する群衆の姿は、心理学的に言えば自己投影である。勝利の歓喜は彼ら自身の努力や成果ではない。だが、自分の人生に欠けている達成感を、球団に仮託して代理満足を得るのである。そこには「自分が勝った」という錯覚的同一化が働く。
3S政策(スクリーン・スポーツ・セックス)の一翼を担うのがスポーツである。愚民化装置としてのスポーツは、権力者にとって実に都合がよい。群衆はスタジアムに押し込められ、テレビの前で雄叫びを上げる。そこで発散された情熱と怒りは、政治や経済に向かわず、ホームランやゴールに昇華される。
群衆は「俺たちが勝った」と錯覚し、翌日には奴隷のように会社へ戻っていく。これはまさにアヘンであり、パンとサーカスの現代版である。
もちろん、スポーツ自体は悪ではない。問題はそれを「国民統治の装置」として利用する構造である。選手が血を流すほど走り、観客が涙を流すほど熱狂するその舞台裏で、権力者は冷ややかに「愚民統治の効率性」を計算している。要するに、スポーツは人間の肉体美と競争本能を利用した「支配の娯楽化」であり、愚民政策の最高傑作なのである。




