孤立の思想、群れから自由になる勇気

 右か左か、護憲か改憲か――どちらの陣営にも一定の人数が集まるのは、人間の集団心理に基づく自然現象である。そこには思想的確信よりも、どこかに帰属していたいという原初的欲求が働いている。人間は本能的に孤立を恐れ、群れの中に身を置くことで安心を得る。政治思想の多くは、その構造を利用して成立しているにすぎず、右も左も、護も改も、実体としては思想ではなく帰属の形式である。

 このような集団が形成される原動力は、「相互承認の快楽」である。自分と同じ意見を持つ者と共にいれば、人は自らの存在が正当化されたと感じる。互いに頷き合い、敵を罵り、共鳴する言葉を繰り返すうちに、思考は次第に停止していく。本来、思想とは孤立を引き受ける行為である。にもかかわらず、現代の政治的立場は群れるための思想へと退化している。承認が信仰に変わり、群衆の熱が思索の代わりを務めている。

 私のように、どちらにも属さないと明言できる人間は、まず孤立に直面する。どの集団も敵として扱い、どの陣営も理解しようとしない。思想を持つ者が孤独になるのは必然であり、思想を持たぬ者が群れるのもまた必然である。

 孤立は痛みを伴うが、それは思考の代償である。群衆の中に留まることは容易い。だが、群れの中にいる限り、人間は思索することをやめる。孤立を恐れる者は思想を捨て、承認を得たい者は迎合する。迎合が集まり、党派をつくり、派閥を生む。こうして政治は思想の闘いではなく、承認の市場と化す。右か左か、護か改か――そのいずれの旗印の下にも、思想より欲望が満ちている。

 私は、この現象を「承認市場」と呼びたい。現代の政治空間は、思想の自由競争ではなく、承認の取引所である。言葉は理念を運ぶよりも、承認を買うための通貨として使われている。理念よりも好感度、信念よりもフォロワー数が価値を持つ。そこでは、思想家ではなくインフルエンサーが支配者となり、思考の深度よりも発信頻度が力を持つ。この時代の支配原理は、もはや真理ではなく「可視性」である。

 しかし、思想とは本来、孤立の中にしか育たない。ソクラテスもカントもアーレントも、常に「中間」や「独自の視点」を選び、その代償として孤独を引き受けた。思想を持つとは、承認の快楽を断ち切り、自分の頭で考える苦痛を引き受ける行為である。孤立は思想家にとって罰ではなく、試練である。群れから離れることで初めて、人は全体像を見ることができる。

 私は、思想や立場を持つことそのものよりも、「立場の外に出る勇気」こそが重要であると考える。二元論の外に立つとき、人ははじめて自由になる。群衆の承認を失う代わりに、より深い理解と洞察を得るのである。孤立を恐れない態度は、知的誠実さの証であり、自由の条件である。思想とは帰属ではなく、孤立の中で鍛えられる精神の構造である。

 ゆえに、私はどちらにも属さない。属さぬという行為そのものが、思想の最後の砦であり、自由の出発点である。群れに属することは安全を与えるが、思考を奪う。群れから離れることは孤独を伴うが、自由を与える。思想とは、この二者択一のうち、後者を選び続ける意志である。

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