トランプ大統領と高市首相の米海軍横須賀基地視察と演説。演説終了後、二人は手をつないで降壇した。香港系中文メディアは高市首相の様子をこう評している――「点頭哈腰、手舞足蹈、奔奔跳跳、搂搂抱抱」。日本語に訳せば、「頭を下げてへつらい、身をくねらせて手足をばたつかせ、はしゃいで飛び跳ね、抱き合って浮かれる」となる(リンク:https://www.facebook.com/reel/1983072425867974)。
私が昨日(10月28日)のSNSで高市を「チアリーダー」と形容したのは、まさにこう見られるだろうと予感していたからである。案の定、その通りの展開となった。
おそらく日本国内の似非保守右派は、「日米の仲良しぶりを中国に見せつける」と自己評価するだろう。しかし、仲の良い友人関係にも礼節というものがある。国家首脳間のこのような姿は果たして正常といえるのだろうか。
むしろ、1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリの甲板上で行われた日本降伏文書の署名式に臨んだ重光葵外相の姿のほうが、はるかに重厚で国家の品格を感じさせた。敗戦や降伏は恥ではない。恥ずかしいのは、媚びを売る下僕国家である。
高市首相が興味深いのは、保守右派によって押し上げられながら、やがて同じ保守右派によって引き摺り下ろされるであろうという逆説的構図にある。彼女は愛国や強硬姿勢、伝統や反グローバリズムといった右派的言説を象徴的に体現し、保守層の情念を代弁する存在として浮上した。しかしその立場は、右派が作り上げた偶像にすぎない。右派の欲望の形が変わった瞬間、その偶像は裏切り者として処刑される。
保守右派とは理念の共同体ではなく、不安と敵意を燃料にした感情共同体である。そこではリーダーは信頼ではなく感情投影の媒体として機能し、支持は熱狂的であっても永続的ではない。ゆえに、彼女がいま右派に支えられていること自体が、将来同じ群衆によって排除される伏線である。彼女の最大の敵はリベラルではなく、彼女を担ぎ上げた保守右派そのものである。
私は高市首相を批判しているように見えるかもしれないが、実際には同情している。彼女は似非保守に「消費」されるアイコンであり、理念ではなく情念によって利用される存在だからである。
いまの似非保守は、理念という背骨を失った軟体動物である。本来の保守とは、国家観・国益・国体を三位一体として捉え、秩序と自立を同時に追求する思想であるはずだ。
しかし戦後の似非保守は、その「国家」を自らの手で解体し、米国への従属を「安全保障」と呼び変え、屈辱を「同盟」に包装してきた。彼らの「愛国」はワシントンの目配せで変色し、「自立」はアメリカの承認印が押されて初めて発動する。これをもって保守と呼ぶのは、もはやブラックジョークである。
戦後日本の保守は、独立を守ることよりも、宗主国に叱られないことを優先してきた。自称保守論客たちは星条旗の下で反共を叫びながら、心の奥では属国の秩序を甘受している。アメリカが咳をすれば、彼らは咳払いで答え、アメリカが笑えば、彼らは拍手で応える。保守論壇の多くは、思想ではなく「対米マナー講座」に堕している。
その結果、国家観は失われ、国益は他国の利益と混同され、国体は単なる官僚機構の維持装置に変わった。いまの似非保守は「自主防衛」を唱えながら、武器はすべてアメリカから買い、「独立外交」を標榜しながら、外交のシナリオは常にアメリカ製である。彼らは「反中」を愛国の証と錯覚し、アメリカの犬であることを国家主義と誤認している。
高市は、その構造の中で最も鮮やかに消費される存在である。彼女は思想家ではなく、保守の演出装置にすぎない。彼女の言葉はワシントンのエコーであり、その身振りは国民向けの舞台演技である。そして、観客席で喝采を送るのは、保守の名を語りながらも、実のところ国家よりもアメリカの機嫌を気にする「愛国的属国民」たちである。
外交の場において、石破の無愛想が高市の媚びよりはるかに上等である。
無愛想は孤立の覚悟を意味するが、媚びは永遠の従属を意味する。
戦後80年、日本は独立を果たしたようで、精神はなお占領下にある。
高市はその現実を象徴するチアリーダーにすぎない。
保守本流は泣いている。





