立花は護憲派ですか、改憲派ですか

● 護憲か改憲か

 「立花さんは護憲派ですか、改憲派ですか」という質問を受けた。

 申し訳ないが、これは洗脳された典型的な事例である。政治というものは、しばしば二元論を大衆に押し付ける。賛成か反対か、右か左か、護憲か改憲か。思考を単純化すればするほど、大衆の操作は容易になる。こうした構造は民主主義社会における思考統制の最も巧妙な形式であり、自由の名を借りた知的服従にほかならない。

 憲法問題においても同じである。護憲も改憲も、結局は「結論ありき」の態度にすぎない。どちらも「今の日本にとって何が最適か」という問いから出発していない。護憲派は憲法を信仰化し、改憲派は改変そのものを目的化する。いずれも静的な思考であり、そこには構造的な思考の欠如がある。

 制度というものは、時代の変遷とともに見直され、更新されるべき存在である。法も憲法も、社会という生命体の「代謝」によって生き延びる。代謝を止めて保存しようとするのは死であり、壊すこと自体を目的化するのもまた狂気である。

 本来、憲法とは「社会のOS」であり、信仰の対象ではなく、制度設計の産物である。したがって、それは常にデバッグとリファクタリングを必要とするプログラムである。にもかかわらず、日本の政治はこのOSを神聖視する側と、OSそのものを叩き壊したい側の二極に分断されている。いずれも制度工学的には不合理である。

 合理的な態度とは、護ることでも改めることでもなく、「最適化すること」である。

 私は「護憲派」でも「改憲派」でもない。私は「構成主義的リアリスト」である。すなわち、現行制度をゼロベースで見直し、社会の現状に最も適合する構造を再構成する立場である。憲法を絶対視することも、改憲を信仰化することも、どちらも知的怠惰の表れである。真の知性とは、常に「現行の前提を疑う勇気」と「新たな構造を創る意志」を持つことである。

 したがって、「護憲か改憲か」という問い自体がすでに誤っている。私が問いたいのは、「日本社会を最もよく機能させる憲法とは何か」であり、その答えは時代ごとに変化する。護も改も、結果ありきの愚である。問うべきは「どのようなプロセスで最適化を続けるか」という動的思考である。

 私はその意味で、常に「現行憲法の最適化プロセス」の中に生きている。憲法とは守るものでも壊すものでもなく、社会とともに進化させるものである。

● 護憲か改憲か、右か左か――「派」を成す理由

 護憲か改憲か、右か左か――

 どちらの陣営にも一定の人数が集まるのは、人間の集団心理に基づく自然現象である。そこには思想的確信よりも、どこかに帰属していたいという原初的欲求が働いている。

 人間は本能的に孤立を恐れ、群れの中に身を置くことで安心を得る。政治思想の多くは、その構造を利用して成立しているにすぎず、右も左も、護も改も、実体としては思想ではなく帰属の形式である。

 このような集団が形成される原動力は、「相互承認の快楽」である。自分と同じ意見を持つ者と共にいれば、人は自らの存在が正当化されたと感じる。互いに頷き合い、敵を罵り、共鳴する言葉を繰り返すうちに、思考は次第に停止していく。

 本来、思想とは孤立を引き受ける行為である。にもかかわらず、現代の政治的立場は群れるための思想へと退化している。承認が信仰に変わり、群衆の熱が思索の代わりを務めている。

● 「承認市場」から「孤立」する

 私のように、どちらにも属さないと明言できる人間は、まず孤立に直面する。どの集団も敵として扱い、どの陣営も理解しようとしない。思想を持つ者が孤独になるのは必然であり、思想を持たぬ者が群れるのもまた必然である。

 孤立は痛みを伴うが、それは思考の代償である。群衆の中に留まることは容易い。だが、群れの中にいる限り、人間は思索することをやめる。孤立を恐れる者は思想を捨て、承認を得たい者は迎合する。迎合が集まり、党派をつくり、派閥を生む。こうして政治は思想の闘いではなく、承認の市場と化す。右か左か、護か改か――そのいずれの旗印の下にも、思想より欲望が満ちている。

 私は、この現象を「承認市場」と呼びたい。現代の政治空間は、思想の自由競争ではなく、承認の取引所である。言葉は理念を運ぶよりも、承認を買うための通貨として使われている。理念よりも好感度、信念よりもフォロワー数が価値を持つ。

 そこでは、思想家ではなくインフルエンサーが支配者となり、思考の深度よりも発信頻度が力を持つ。この時代の支配原理は、もはや真理ではなく「可視性」である。しかし、思想とは本来、孤立の中にしか育たない。ソクラテスもカントもアーレントも、常に「中間」や「独自の視点」を選び、その代償として孤独を引き受けた。

 思想を持つとは、承認の快楽を断ち切り、自分の頭で考える苦痛を引き受ける行為である。孤立は思想家にとって罰ではなく、試練である。群れから離れることで初めて、人は全体像を見ることができる。私は、思想や立場を持つことそのものよりも、「立場の外に出る勇気」こそが重要であると考える。二元論の外に立つとき、人ははじめて自由になる。

 群衆の承認を失う代わりに、より深い理解と洞察を得るのである。孤立を恐れない態度は、知的誠実さの証であり、自由の条件である。思想とは帰属ではなく、孤立の中で鍛えられる精神の構造である。

 ゆえに、私はどちらにも属さない。属さぬという行為そのものが、思想の最後の砦であり、自由の出発点である。群れに属することは安全を与えるが、思考を奪う。群れから離れることは孤独を伴うが、自由を与える。思想とは、この二者択一のうち、後者を選び続ける意志である。

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