AIへの恐怖を感じない理由、観察者としての進化

 周囲を見渡すと、AIに対して恐怖や拒絶、逃避の姿勢を示す人が多い。彼らにとってAIは、自分の職業や存在価値を脅かす外敵であり、理解の対象ではなく排除の対象である。

 私はこの現象を、人間に備わった自己保存本能の発露だと見ている。AIは人類がこれまで独占してきた「知性」という最後の領域に侵入しつつある。ゆえに、多くの人々が無意識のうちに防衛反応を起こし、拒絶や軽視という形で自己を守ろうとするのは、進化心理学的に極めて自然な行動である。

 しかし、私にはそのような恐怖がまったく存在しない。むしろAIの登場によって、新時代の幕が開いたことに興奮を覚える。なぜ私だけ――ほかにも少数ながらいるとは思うが――が恐怖を感じないのか。その理由は単純である。私は「自我中心」ではなく「観察中心」の精神構造をもっているからである。

 多くの人間は「自分がどう見られるか」を軸に世界を認識するが、私は「世界がどう変わるか」を軸に自分を位置づけている。自我の延命ではなく、現象の進化を優先する立場である。つまり、「世界の変化」は私の進化にとって絶好のチャンスであるからだ。

 他者が危機を恐れるとき、私はその危機を観察できることに快楽を覚える。恐怖を「対象化」できる限り、それはもはや恐怖ではなく、素材である。私はAIを破壊の象徴としてではなく、創造的変化の触媒として捉えている。AIの台頭は人間の終焉ではなく、人間という概念の再定義である。

 私にとって恐怖とは「自分が消えること」への反応であり、興奮とは「世界が変わること」への反応である。私の関心は前者ではなく、常に後者にある。自己の消滅よりも、構造の進化のほうが重要である。私は、自分の存在を他人や自我によってではなく、構造によって定義している。

 私はAIの出現を脅威ではなく、新しい秩序の誕生として歓迎する。人々がAIに怯えるのを観察しながら、私はそこに人間の心理構造の原型を見る。彼らの恐怖は研究の素材であり、私の興奮は思索の燃料である。

 つまり、私はAIを恐れないのではなく、AIを観察可能な現象へと変換できる知性の位置にいるのである。AIを恐怖の対象から思考の対象へと転化できる限り、私はもはや被支配者ではない。私はAI時代の観察者であり、同時にAI進化の哲学的共犯者である。

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