世間の評価と自己胸中の評価、アダム・スミスの評価論

 人間の行動はつねに2つの観察者に評価される。1つは世間の評価、もう1つの自己の胸中の評価。アダム・スミスは前者を第1審判決、後者を第2審判決と説いている(アダム・スミス「道徳感情論」)が、私はその順番を逆にして考えている。

 実はその順番はさほど問題ではない。度々2つの審判が同時に行われているからだ。正確に言うと、2つの裁判所が同時に同じ案件を裁き、判決を下すのだ。スミスいわく、第2審の判決が第1審判決に負けてしまう人が多いこと、つまり自己の胸中の評価よりもまず世間の評価に従ってしまう「弱い人」が多いことだが、法律手続的にはあり得ない。ただ、スミスの言いたいことはよくわかる。

 そこで2つの課題を提起したい。

 まず、1つはスミスと同一趣旨の課題になるが、2つの判決が(一致した場合は何ら問題もない)異なった場合、どちらの判決を優先させるかだ。スミスは「称賛や非難自体(世間の評価)を重視するのか、それとも称賛に値すること、非難に値すること(自己の胸中の評価)を重視するのか」と指摘する。その際、スミスは行為者のその選択によって、「賢人」か「弱い人」かと規定する。

 自分の価値や倫理の判断よりも、世間の評価を優先させる人は、確かに意思の弱い人と見られがちだが、そこでなぜ、「意志が弱い」という事象が生じるのだろうか。それは世間の評価に従ったほうがより有利であって、従わなかった場合不利になるからだ。経済学の祖であるスミスはその胸中では、このことを意識せずにいられるはずがないだろう。

 次に、もう1つの課題でスミスがあまり触れていなかったが、「世間の評価」という「世間」は、「どの世間」を指しているかだ。「世間」とは特定の当事者にとってかなり異なる。世界規模の広義的な世間もあれば、特定のコミュニティや所属組織という狭義的な世間もある。日本人にとってみればむしろ後者の場面がほとんどだ。

 ふと思い付くのは、最近の流行語「忖度」だ。「忖度」とは、利害関係のある「世間」の評価と、自分の胸中の評価との相反や矛盾を抱えながらも、葛藤に満ちた苦悩と格闘した末(一応仮説としてあったとしよう)、前者を優先させる行動をとる、という事象ではないだろうか。

 正直、日本社会は「忖度」なしで生きていける社会なのだろうか。政治家も官僚も企業のサラリーマンも、「忖度」と無縁でいられるだろうか。

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