ニーチェ『善悪の彼岸』雑感(2)~民主主義はルサンチマンの母

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 「奴隷の道徳はまったく別のものである。もしも迫害された者が、抑圧された者が、苦悩する者が、自由でない者が、自信を持てない者が、疲れ切った者が、道徳の教えを説くと考えてみよう。こうした人々の道徳的価値評価にはどのようなものが共通しているのだろうか?おそらく人間のすべての状況について悲観的な猜疑が漏らされるだろうし、人間が断罪され、人間がおかれている状況が断罪されるだろう。奴隷のまなざしは、力強いものたちの徳を妬み深く眺めるだろう。奴隷は懐疑家であり、不信の念に駆られた者である。力強い者たちが敬うすべての『善きもの』には、敏感な不信の念を示すに違いない。――そこにある幸福は、本物ではないのだと自分に言い聞かせるのだ」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 「奴隷」とは、一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間のことをいう。ニーチェの目に映る「奴隷」とは、身体の隷属よりも、精神の隷属のことを指しているのだろう。自分の諸々の「負の処遇」や不幸の源泉を特定するためには、自己(客体)に対置されるカウンターパーティー(主体)の存在が必要だ。つまり奴隷を所有し、奴隷を搾取する主(圧制者)のことだ。

 奴隷道徳は弱さから生まれるルサンチマンであり、事物を「良」「悪」ではなく、「善」「悪」で判断する。奴隷道徳は圧制、あるいは「みなし圧制」への反抗なので、圧制者を悪と捉える。奴隷道徳は圧制者を超える道を探るのではなく、圧制者をも奴隷する道を探る。つまり、圧制者のもつ「善きもの」への承認を拒否し、そこにある幸福をも偽りと捉え、圧制者はいずれ地獄に落ちるという結末を用意する。

 奴隷階級や圧制者階級たる「階級」が消滅する現代においても、なお弱者の妬みたるものは消えない。いや、むしろそれが増強しているように思える。日本ほどフラットな社会も少ない。「みんな同じ」という認識が戦後から定着し始め、社会の同質性・均質性が非常に高い。なのに、なぜここまで「格差」や「不平等」に敏感なのだろうか。原因は「階級」という可比較性が消えたことにある。

 陸と海の違いは、その異質性に着目されるが、陸上の山や谷や平地の違いは、その高度さで比較されて表出する。同質性・均質性もの同士はより可視的な量の差で比較される。フラットであるはずの民主主義社会はどう見ても、フラットになっていない。人間は同じグループのなかで相互比較する習性をもっているが故に、その比較によって人為的に新たなグループ内階級を作り出す。それは強者と弱者の階級、あるいはサブグループといおう。

 要するに、「階級」や「グループ」や「格差」たるものは社会存在の必要条件なのだ。社会主義や共産主義が目指すところは、「階級」の消滅ではなく、「階級間の断絶」である。いわゆる一握りの特権階級が雲の上の存在となることだ。あと残される大多数の庶民階級を均等な貧困状態に陥れる。一方では、民主主義制度は「階級」を消滅しようとする。そこでフラット状態になったはずの万民には、グループ内の格差が可視化され、相互比較から妬みやルサンチマンが繁殖する。

 「不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』)

 では、どうする?ビル・ゲイツが言う、「人生は公平ではない。そのことに慣れよう」。その一言に尽きる。

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