● 残虐な独裁者を「信じる」と明言するワケ
ハノイで行われた米朝首脳会談で、北朝鮮から米国に帰国後死亡した米学生オットー・ワームビアさんの件について、金正恩氏は「事件を知らなかった」と関与を否定したところで、トランプ大統領は「(その説明を)信じる」と応じた。
案の定、トランプ氏の対応には多くの非難が殺到した。残虐な独裁者を擁護するかのような発言は到底容認されるべきものではない。
ところが、考えてみると、そもそもこんな事件で問い詰められた金正恩氏は、「はい、私が関与していました。申し訳ない」と素直に認めるはずがない。そこでトランプ氏は、「どう見ても、あなたが指示したのではないか」と追及しても、結局のところ水掛け論になり、会談も取引も何もできなくなる。
国際政治の舞台は国益ないし支配者層の利益の最大化を図るうえで、愚直に真実を語る場ではない。嘘をつくこともつかれることも、日常茶飯事。トランプ氏が語る「信じる」というのも嘘である可能性が大いにあるだろう。そこでトランプ氏にそれが真意か嘘かを確認することも、額面通りに受け取りそれを批判することも、ナンセンスとしか言いようがない。
さらに言ってしまえば、トランプ氏が金正恩氏のことを「素晴らしい指導者」と褒めたり、「相性が合う」と好意を示したりすることも、同じ性質のものではないかと思う。いちいちそのへんを追及しても建設的とはいえない。善悪の単純化された民主主義的な正義はときにナイーブすぎる。悪人の狡知や老獪な手口を否定したところで、民主主義自体の価値も毀損されかねない。
しかし、残念ながらこの世の一般常識では、トランプ氏はやはり筋悪な異端児に分類されてしまうのである。
● 阿呆の作法踏み外しと筋悪な異端児
トランプ氏の大統領当選はその当時、世界を驚かせた。いちばん驚いたのは学者や評論家、世のエリートたちだったのではないか。
米大統領選に先立って、東洋学園大学教授・櫻田淳氏は2016年3月22日付産経新聞「正論」で、「踊る阿呆」と「見る阿呆」という喩えを使って、「耐え難いトランプの無知と錯誤」「トランプ候補の言動は、『踊る阿呆』としての作法を全く踏まえていない」と酷評した。
まさに「正論」である。トランプ氏は作法を踏み外している。だが、作法踏み外しこそがトランプ氏の取り柄であり、差別化されたマーケティング手法でもあった。作法を踏まえてエリート政治家たちと同じ土俵で議論するなら、彼は大統領選で戦えない。選挙に勝たなければ、国家統治の資格すら得られない。まず、何が何でも選挙に勝つこと、大統領になることが最優先だった(参照:ずけずけ言う男、トランプ流の選挙マーケティング)。
さらに、櫻田氏が2016年4月5日付の同じ産経の「正論」で、「トランプ氏の登場に期待し、便乗して何かをしようという発想それ自体が、極めて筋悪なものである」と批判した。これも正論だ。この世のいわゆる普遍的価値観における「正論」に立脚すれば、「筋悪」というのはトランプ氏にふさわしいキーワードである。
● 毒をもつ男たち、トランプとチェーザレ
「日本の作家は、どうやら悪を書くのが不得手であるようだ。それは、日本の歴史上の人物に偉大な悪人がほとんどいないことから、書くのに慣れていないのか、それとも、日本人自体が見事な悪人とは肌が合わない気質をもっているためかもしれない」
歴史作家の塩野七生氏はこう指摘する(新潮文庫『想いの軌跡』360頁)。塩野氏自身の感覚からすれば、チェーザレ・ボルジアのような「毒をもつ男」はむしろ政治家としてより魅力的である。
毒と悪が同一ネガティブなカテゴリーに帰属するとすれば、価値観的にいずれも日本人によって否定される対象となるだろう。トランプ氏のもつ毒がチェーザレのそれとやや異なるように見えたのは、時代や社会体制の異質性故の結果に過ぎない。チェーザレはもし、現下の民主主義時代におかれた場合、トランプ氏に酷似していたかもしれない。あるいはその反対も言えるのではないだろうか。
故に、櫻田氏の「筋悪論」は今日の日本人の普遍的価値観や善悪観の表出として、正鵠を射た指摘であるように思える。
直近の米中貿易戦争からも、トランプ氏の「筋悪な本質」を垣間見る場面は多々ある。中国との戦い方は、洗練された紳士ルールよりもむしろ無頼漢らしきものが目立つ。
「以其人之道,還治其人之身」(朱熹『中庸集注』第13章)。「その人のやり方をもって、その人を倒す」という意味で、俗にいえば、「毒をもって毒を制す」という策略だ。トランプ氏は中国哲学を熟知しているか、それとも、その筋に精通する人材のブレーンがいるのか、あるいは単にトランプ氏自身がもつ「天然毒」の無造作な表出なのか、知る由もない。
トランプ氏は猛毒をもっているようだ。紳士同士の付き合いは紳士ルールでいいが、賊と付き合う際には必ず賊ルールを使うこと。見苦しいと思ったら賊にやられる。日本人は毒を持たないから、常に毒にやられるわけだ。
● 「米国第一主義」は何も悪くない!
トランプ氏は「米国第一主義」、保護主義の旗を掲げたところで叩かれた。グローバリズムに公然と異を唱えるには相当な勇気と覚悟が必要だ。よほどの異端児でない限り、なかなか難しい。
グローバリズムの基底に横たわっているのは、世界的貧富の格差の撲滅という価値観と倫理観である。裕福な先進国とそうでない途上国や新興国、その貧富の差を無くすことを善とするイデオロギーである。世の中、そうした「絶対的正論」たる美辞麗句を唱えれば、誰もが反論できなくなる。特に日本は最初から格差を悪としている以上、文脈的に格差消滅を目標とするグローバリズムが正義となるだろう。
しかし、トランプ氏は反グローバリズムだ。2018年9月25日の国連総会一般討論演説で、氏は「グローバリズムのイデオロギーを拒絶し、愛国主義の理念を尊重する」と明言する。持論の「米国第一主義」をさらに明確な形にしたところで、その「国際協調に背を向ける姿勢」は大方のメディアに批判された。無論、悪としてだ。
人間は生物同様、自己保存の本能を有している。自己保存故に他者との資源争奪が不可避的に生じる。一方で、その資源争奪現象の消滅を善とした場合、その善を謳歌することを疑うことすら、悪とされるのである。そうした風潮が主流化する世間では、哲学に求められる「懐疑」という基本的姿勢は萎縮する。人間一般に対してペシミストに立脚するトランプ氏はむしろ冷徹な視線で、醜悪に満ちた世界を正視していた。無論、そのポジションに立った時点である意味、トランプ氏自身の相対悪は余すところなく露呈したのである。
「真・善・美」というが、客観的存在として認知され得るのは「真」だけである。ただ「真」は往々にして「醜」だったり、「悪」だったり、あるいは「醜悪」だったりする。トランプ氏は主観的な美醜論や善悪論よりも、むしろ客観的な「真」を忌避せず、たとえどんな醜悪な真であろうとも、これを正視する姿勢を崩そうとしなかったのである。
●「悪人」よりも「悪魔」を目指せ
人間集団の利益からすれば、国家利益が最大単位の集団利益になろう。そこで一国の大統領として国益の擁護と維持を第一義的なミッションと捉えることは至極真っ当だ。にも関わらずたびたび世間に非難されるのは、民主主義社会のマスコミによって強化されるルサンチマンに起因する。
非難は世間から消えることはない。非難を恐れる政治家は失格だ。たとえ「醜」や「悪」であろうとも、たとえ世間からどんなに罵声を浴びようとも、絶対に引かない。政治家やリーダーにはそうした厚顔さが必要なのだから。
2018年12月1日、ブエノスアイレスで開かれたG20首脳会議はついに、「保護主義と闘う」との文言を盛り込むことなく、首脳宣言を採択して閉幕した。悪魔の勝利だった。
悪人とは、ちょっとした悪事に手を染める小物にすぎない。だが、悪魔は違う。悪魔がなす悪事はもはや、手を染める程度ですまない。全身全霊をかけるのだ。悪は必要悪であり、一種の独自の相対的正義であり、これらを裏付ける原理原則ができたとき、哲学、あるいは神学の次元に達する。天使の対極にある悪魔サタンは極悪ながらも、神であることには変わりない。
中途半端な偽善者や悪人よりも、トランプ氏は悪魔を目指しているようにも見える。帝王学の極意であろうか。