格差こそ平等の証!「貧困の平等」と「富の平等」

 「格差社会と機会均等は矛盾しませんか」

 「機会均等」とは、一般的に、教育、雇用、医療などで社会的活動での差別禁止を指しているが、個人という範疇を超えてもっと広義的に捉えたい。要するに、努力すれば、誰でも同じ土俵で競争に参加し、成果を手にすることができるということである。「格差社会」と「機会均等」は矛盾を内包しながら、共存する関係である。以下の文脈に注目したい――。

 ● 「機会均等」の結果としては、必ず「格差社会」が生まれる。
 ● 「機会均等」でなくても、結果として必ず「格差社会」が生まれる。
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 では、どの「格差社会」を取るのか?
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 ● なら、「機会均等」の結果としての「格差社会」を受け入れよう。

 社会主義と資本主義の根本的な差異の1つは、「結果の平等」か「機会の平等」である。資本主義自由経済の原理は、「機会の平等」「ルールの平等」に基づいている。結果だけの平等は、過去の中国や旧ソ連の社会主義計画経済時代を想起させ、結果的に生産性の低下を招き、経済や社会の成長を停滞させ、その悪果はすでに歴史によって証明された。

 富を得た者は、より富を維持できるようにルールを変えたがることはその通りだ。しかし、それを理由に富を得たものから、その富を奪い去ることは断じて許されるべきではない。仮に富を国家の公権力で奪ったとしても、それによって決して貧困層は豊かにならない。

 肝心なのは、富を得た者は、機会の平等原則のもとで、公平なゲームルールのもとで、富を得たかどうかである。不正蓄財でなければ、どれだけたくさんの富を持っても、保護されるべきだろう。

 「機会均等」は、まず、法制度によって担保されなければならない。そして、法制度のもとで、貧しき者は、「機会均等」の恩恵で富を手に入れる事例は、いくらでもある。相続に関してだが、親から大きな資産を受け継いだ人とそうでない人、財産そのものを「機会」として正比例評価するのが不適当だと思う。相続税をたくさん徴収することによって、資産の継承を阻止することはできない。逆に、海外への資産流出や勤労意欲の低下につながる。

 富裕層の富を削っては、決して貧困層の救済にはならない、ということである。

 一方では、セーフティーネット(社会安全網)は絶対に必要だ。競争に参加する気になれない人もいる。それだけ能力に欠けている人もいる。その人たちには、冷たく「ノー」と拒絶してはならない。基本生活保障の提供は、国家の義務でもあると思う。それから寄付や慈善事業、まだまだ日本では不十分だと思う。富の二次配分は、税収調整の一本に頼っては足りない。

 機会均等と救済制度という2つの前提のもとで、格差の存在を必要悪として認めれば、国家と社会には必ず活力がつく。

 私は経営コンサルティングの現場でも、結果平等の人事制度にメスをいれ、機会均等、機会平等なものに変えていくのである。最近、ある企業の社長が言ったことだが、大変感銘を受けた――「格差は、平等の証だ」。少し付け加えると、「結果としての格差は、機会平等の証だ」ということである。

 格差そのものをもし、「悪」と考えるのなら、結果としての格差は、必要悪である。世の中は、「貧困の均等」があっても、決して「富の均等」はありえないのだ。共産主義が目指すところは、「富の均等」というユートピアだが、現実の結果として、「貧困の均等」にほかならないことは、すでに歴史によって実証された。

 「格差」というのは、日本で基本的に悪者扱いされ、タブー視されてきた。いよいよ、「格差」のあり方を議論するときがきたと思う。票を集めることしか頭にない政治家は、「格差」問題を避けてきた。あるいは民意に迎合して、「格差」を罵ってきた。そのままでいくと、日本は本当に悪性の「格差」社会になる。その先は、どうなるか。富がどんどん海外に流出し、日本は、最後「格差」のない均等貧困社会に転落する。

 だから、「格差」のあり方を議論することが重要だ。国民が聞きたくないことでも、ちゃんと議論するよう仕掛けるのが政治家の役目だ。当選を度外視してでも、叫び続ける政治家はいま、日本のなかにいるのだろうか。

リンク:『格差なき社会はユートピアであるか?』

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