金子光晴ゆかりの街、センチメントなきセピア色の旅

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 9月4日(金)、ジョホール州のバトゥパハ(Batu Pahat)へ車で移動。1泊という短い滞在だが、詩人金子光晴の足跡を追うセピア色の旅である。

バトゥパハ旧日本人クラブ(1925年建造)

 メインの見学先はなんと言っても、金子が滞在していた旧日本人クラブ。実は建物はほぼ当時のまま残っているのである。「山から出てきた人達はここに宿泊し、相談事に寄合ったり、撞球をしたりする」と金子は当時の様子をこう描いた。彼は1928年から5年かけてマレー半島、ジャワ、スマトラを旅し、後に『マレー蘭印紀行』という本を出版した。

 私は文学の世界には正直、大きな興味を持っていない。金子の足跡を追うといっても、単たるセンチメンタルなセピア色の物語につかるつもりはない。反戦詩人と位置づけられた金子だが、NHK人物録のなかで、彼は「戦争は日本人を鍛えた」という鍛練論を語った。彼自身も事物の異なる側面を複眼的に捉えていたように思える。そこで、「反戦詩人」というラベルを剥がしてその粘着面をのぞいてみたくなる。

 金子の人物像に迫るともいうか、詩人という職業や文学という領域から一歩も二歩も引いて、一人間としてそのなかに秘められたある種のメカニズム、少々大袈裟にいってしまえば、哲学的な部分を引き出せないものかと期待を膨らませ、バトゥパハの街に足を踏み入れた。

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