帰らないことが最善、金子光晴はなぜ放浪の旅から帰れないか?

<前回>

 「そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。ゴム園にゆくにも、鉄山を訪ねるにも、ここは重要な足がかりである。山から出てきた人達はここに宿泊し、相談ごとに寄合ったり、撞球をしたりする。夜は、早便でここへつく日本の新聞をよむために事務所の洋燈ランプのしたにあつまる街の人たちもあった」(金子光晴『マレー蘭印紀行』より)

バトゥパハ旧日本人クラブ(1925年建造)

 その旧日本人クラブ(1925年建造)を見学してみたいと考え、ネットでいろいろ調べると、建物は個人所有されていて中に入ることができないとなっている。現地の友人に諦めの確認ということで念を押してみたところ、数日経って、建物のオーナーに連絡が取れ、事情を説明したら中に入れてくれることになったとの返事が戻ってきた。

金子が滞在していた部屋で、建物オーナーのマレーシア華人から説明を受ける

 それは嬉しい。嬉しすぎる。感謝感謝。その情報が現地でも伝わったところ、当日、他にも興味をもった日本人やマレーシア人が複数姿を現し、ちょっとした団体ツアーになった。約束の時間より30分弱遅れてきたオーナーのマレーシア華人が熱心に案内してくれた。お父さんやお祖父さんから聞いた話もいろいろと教えてくれた(参照:『【動画・立花レビュー】第63回 2020.9.5~<マレーシア雑談>金子光晴が見たセピア色のマレー物語』)。

金子光晴が滞在していた3階の角部屋の内部

 100年ほど前に、日本人がこの建物の3階を日本人クラブとして借りていたもので、金子光晴はその一角にある角部屋に投宿し、しばらく滞在していたのである。残念なことに、金子部屋を含めて3階の旧日本人クラブは総改築工事が施され、当時の面影を見ることはすでにできなくなった。工事現場に野鳥の死骸まで散乱していて決して良い状態ではないが、その空間に足を踏み入れただけでもそれなりの意味を感じた。

金子が滞在していた3階の角部屋の外観

 私は詩を文学的に吟味する能力をもっていない。詩人金子の文学的才能やその作品の出来具合を評論する立場にもない。その代わりに別の切り口を取り上げたいと思う。

 金子は1928年から足かけ5年に及んだ東南アジアから欧州への放浪の旅に出る。東京を後にパリを目指したとき、金子はなんと名古屋までの旅賃しか持っていなかったという。どうにか金を工面し、まずは長崎から上海へ渡り、そこから香港、シンガポール、ジャワ島、マレー半島、スマトラ島を旅し、ようやくパリへ辿り着いたのである。

説明を続ける建物のオーナー

 今風にいうと、貧しいバックパッカーがアルバイトをしながら世界半周の旅をするといったところだろうか。持ち前の画才で旅絵師のような仕事をして、行く先々で旅費と生活費を稼ぐ。今日の世界では、これは各国で不法就労と脱税容疑で摘発・逮捕され、国外強制退去させられていただろう。時代が変われば、環境も変わるものだ。

 バトゥパハ川の日本人クラブの1室に投宿し滞在したのも宿泊費が無料で、絵を買ってくれそうな日本人が多かったからだ。これも今は無理。まず各地の日本人クラブには無料宿泊できる部屋など設けられていない。たとえあったとしても、会費も納めていない外来者の非会員をタダで泊めるわけにはいかないだろう。

屋上にはドーム状の塔がある

 何よりも今時の日本人は絵を買ってくれるのだろうか。振り返ってみると、100年前の日本人はずいぶん文化的なセンスと経済的余裕があったものだと感嘆せずにいられない。日本人が退化したのか、それとも時代が進化したのか分からないが、金子が100年遅れて放浪の旅に出ようとも、別の方法で金を工面せざるを得なかったろう。

 いずれにしても金子は無謀だったかもしれないが、勇気があったといえる。ただ、「かへらないことが最善だよ」(金子光晴『ニッパ椰子の唄』より)という一言は余計で、殺風景だったように思えた。放浪の哲学を語るというよりも、自己正当化にしか見えない。

屋上から眺めるバトゥパハ川の景色

 「帰れないから、帰らないことが最善」なのか、それとも「帰られないことが最善だから、帰れない」か。と、聞きたくなる。日常からの逃避だとすれば、一箇所に長く逗留するわけにはいかない。長く逗留すれば、必ず日常化するからだ。日常からの逃避、放浪の旅が一箇所での定住よりお金がかかっても仕方ない。そこから見えてくるのは、個人的な現実逃避の欲求であり、日常を破壊して欲しいという潜在的願望にほかならない。

 無論、文学を専門とする文人に「問題解決」を求めてはいけない。文人はそもそも全員が「問題解決」するために生まれたわけではない。その多くは「問題からの解放」――たとえそれが一時的なものであっても――という価値を読者に提供しているのだ。現実逃避の願望をもつ読者がそこに共鳴を感じれば、作品として成功するわけだ。

<次回>

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