騙され続けながらも努力し続ける、そして二流三流へ堕落する

 1つ目、日本人は騙されやすいカモというブランドが世界に定着している。騙される人たちが他人に迷惑をかけている部分が大きい。騙されたことに恥じ入ることなく、被害者の正義に酔い痴れるのがもっと腹立たしい。

 日本人はとても面白い。100万円を騙されるから、予防代金10万円を払ってくれれば、90万円は助かるといっても絶対に応じない。結局100万円を騙される。今度1000万円稼げるところで手数料100万円を払ってといってもまた払わない。結局前回と合わせて1100万円の損をする。

 2つ目、日本は貧しい国だ。戦後の半世紀はたまたま時の運で努力が実って一時的に舞い上がった。日本人は努力で必ず結実すると勘違いした。世の中は努力の8割が失敗に終わることをようやく学びつつある。努力しての勝率が2割りだが、努力しなければ勝率がゼロだ。

 だから、ニューノーマルではなく、ノーマルに戻るのだ。貧困に戻り、かつ貧困を自覚する。そこから、日本人同士の競争が始まる。「みんなが一緒」という虚像がフェードアウトする。みんなが一緒なんてことはありえない。みんなが違うのだ。

 頑張って報われるかどうかは神様の裁断。頑張って報われなかったのは、頑張りが足りなかったか、頑張り方が悪かったか、他人の頑張りに及ばなかったか、運が悪かったからだ。たまに運が悪い時もあるが、二度も三度もあれば、それは自分の問題だと思った方がいい。

 神様はそんなに間違いはしないはずだ。もし神様の間違いなら、神様にクレームするべきだろう。神様が人間のクレームを受け付けるかは、わからない。

 最後に3つ目は、差別。日本人はとにかく差別を嫌う。しかし、法的権利以外の、人間対人間の差別は決して消えない。言葉や行動における差別を禁止できても、心中での差別は消しようがない。自分に対する差別を消滅するには、優位(経済的、知的、倫理的など)に立つほかに方法がない。

 しかし、優位に立てばまた他人を差別するとも思われかねない。人間社会は差別のうえに成り立っているものだ。国家も然り。二流三流国家も差別される存在なのだ。差別を潔癖すぎるくらいに、病的に拒絶する国も二流三流国家に堕落していくのである。

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