独裁・専制主義は単一性しか認めず、民主主義と相容れない。一方、民主主義は多様性や人権や自由を認めている。ならば、民主主義は多様性の1つである独裁・専制主義の存在(並存)を認めるべきだろう。少なくとも、非民主主義的な制度や思想の存在を認めるべきだろう。しかし、現実はそうなっていない。
「非民主主義」とはすなわち「独裁・専制主義」ではない。「非民主主義」あるいは「非完全民主主義」とは何を意味するか。北朝鮮のような純度の高い独裁・専制国家もあれば、シンガポールのような温和なものもある。単純二極でなく、グラデーションの世界である。
しかし、このグラデーションの世界を、米国をはじめとする自称「民主主義」者たちが意図的に白黒の単純二色に塗り替え、二極化によって独善的に自己の唯一正当性を打ち立て、自ら定義する「民主主義」以外のあらゆるイデオロギーを「独裁・専制主義」として一括りにし、叩き潰す。民主主義の解釈権と運用権を独り占めしたのである。
この手法は、よくみると、「独裁・専制主義」以外の何ものでもない。しかも、「民主」という外見をしているだけに、純粋たる独裁・専制よりも欺瞞に満ちてより悪質である。まだまだ、これだけではない。
世界最大の民主主義国家として知られているインドでさえ、いざアメリカと異なる姿勢を示し、米国主導のロシア非難・制裁の陣営への加入を断っただけで、直ちに米国に叩かれる。
今度持ち出したのは、「歴史の正しい側」「歴史の間違った」という「どちら側につくのか」という、独裁・専制を超えて、もはややくざ的な面である。ちなみに、日本はやくざの親分に忠誠心満点でありながらも、チンピラの力すら持ち合わせていない。
民主主義やら自由やら多様性やら、あるゆる美辞麗句の解釈権はすべてアメリカが握っている。ロシアや中国やイランや北朝鮮や、アメリカに「NO」という国々はすなわち敵対国家や侵略者やテロリストである。「善」「悪」の単純二極を規定するのは、独裁者の特徴である。
誤解のないように、私は独裁・専制主義支持者でもなければ、反民主主義者でもない。民主主義の真義と現実の対照をしているだけだ。民主主義の最大の優越性は、多様性の共存、とりわけ与党や野党の複数化による牽制作用にある。世界政府云々いうが、自称「民主主義」一党一派だけの天下になれば、それはつまり民主主義が死した日である。
アメリカは、いつの間にか自らのいわゆる西側陣営のことを「国際社会」という名称に置き換え、世界一党一派独裁の「貫禄」を漂わせるようになった。牽制がなくてはならない。そういう意味で、善悪の道徳判断(それ自体が米国に牛耳られている)は抜きにして、少なくともロシアの存続を保障しなければならない。
そういう意味において、私はロシアを支持する。