「議論」の真義

 「議論」といえば、「勝負」。確かに「論破」には快感が伴う。ただそれが束の間の高揚感でしかない。しかし一方、「論破され」たところからたくさん学べる。

 「論破される」とは、必ずしも他人にとは限らない。自分に論破されることもある。前提は自分の「正論」に反論を仕掛けることだ。ここ2年私は何度も何度も自分に論破された。そこで以前自分と同じ論陣に立つ同士が論敵側に回り、私が変節と見られることも多々ある。

 私は定期的に自分が数年前に書いた記事を引っ張り出して反論を仕掛けるようにしている。そこで論破されないものと論破されるものがある。しばらくするとあることが判明した――。論破されるもののほとんどが「本質」ではなく、単なる「現象」に過ぎなかったり、自分の凝り固まった固定観念だったり、利害関係が絡んでいたり、その類いのものだった。

 自己論破、自己否定されたものを公に示すには少々勇気がいる。だが、メンツさえ捨てればいい。メンツは進化を妨げる元凶なのだから。日本社会では、議論がタブー。だから、なかなか進化できない。

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