お金の稼ぎ方と愛の買い方

 お金の稼げない人が、他人の稼ぎ方を「汚い」と批判するのは、事実認識価値判断の混同だ。要するにキツネ「酸っぱい葡萄」心理の表出だ。先日会話のあった某富裕層日本人の言葉を借りると、「稼ぎ方評論はまず稼いでからした方がいい」と。

 ニーチェ曰く「弱者は解釈で世界を変える」。まさにその通りだ。自分の貧しさ、あるいは望んだお金が手に入らないという欲求不満から生まれるルサンチマンの感情にほかならない。世界を力で変えることができない人は、「解釈」で世界を変えるのだ。

 「たくさんのお金は要らない」と言っている人の多くは、たくさんのお金が稼げない人だ。お金はたくさんあったほうがいいに決まっている。お金は別に自分にだけ使うものではない。世のため他人のために有益に使いたいなら、まずは自分や家族に必要な分以上のお金を稼ぐ必要がある。

 「愛はお金で買えない」というのも同じだ。言い訳や嫉妬にすぎない。「愛はお金で買えない」とは、お金が溢れている人か、愛が溢れている人か、両方が溢れている人しか言えないことだ。そもそも、愛とお金を同次元で語ったらもうアウトだ。発言者はどっちも欠乏している人なのかもしれない。

 思うに、愛はお金で買えるときもあれば、買えないときもある。もちろん、お金の額にもよる。ただ、愛はお金で育てられることがある。愛は動態的だからだ。愛が成長株だとすれば、投資にはある程度の元手が必要だろう。

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