金融大混乱時代に突入、日銀と市場の戦い勝負はどうなる?

 日本の金融市場は、だいぶ混乱している。

 日銀が市場に負けた(負ける)かどうか、専門家の意見が分かれている。両方それぞれの言い分があって、金融専門家でない私はついついどちらにもうんうんと相槌を打ちたくなったりもする。

 一部の記事(評論)では、まず「市場」の捉え方はどうも投資家やトレーダーに置き換えられている。投資家やトレーダーたちは、取引は勝負、「儲けたものが勝ち、損したものが負け」だから、日銀を追い込んで儲けようといろいろ仕掛けていると。そこで「勝負論」が始まり、次々と結果の予測が打ち出されるわけだ。

 私が捉える「市場」とは、中央銀行でもなければ、投資家やトレーダーでもない。両方とも市場のプレイヤーに過ぎない。国家をバックにする中央銀行は強いことが言うまでもなく、とりわけ貨幣を刷り続けることができるからだ。そういう意味で有限の資源(資金)しかもたない投資家やトレーダーは中央銀行と戦っても勝算のないことが自明の理だ。

 私がここで言っているのは、アダム・スミスが『国富論』のなかで言っている「神の見えざる手」という意味における「市場」である。この理論はもはやある程度経済を学んだことの人なら誰もが知っている「市場メカニズムを重視する」考え方であり、現代の経済学の基礎にもなっている。

 中央銀行の市場介入は、「見える手」である。「見えざる手」を「見える手」で操ることに、限界があるはずだ。もし限界がないなら、つまり「見えざる手」理論それ自体の破綻を意味する。資本主義の市場経済そのものが「見える手」によってコントロールできるならば、市場経済が計画経済と化してしまう。

 「見える手」で「見えざる手」を制御するには、限界があり、コストも付きまとう。その限界はどこにあるか、コストがどのくらいかかるか、最終的にコストは誰にのしかかってくるか、そこに私は感心をもっているのだ。

 勝負の結果、その如何を検証するのは歴史である。自然科学と違って、経済学も金融論も過去の事象から抽出されたいわゆる解釈的論理にすぎない。これらの経験則を将来に当てはめたところで、予測になり、予測が外れたところで、また新たな解釈的論理が構築される。そういう世界なのだ。

 あえて言えば、過去に対する解釈(説明)はいくらでも辻褄合わせができるので、学究よりも、実務レベルの効果(損得)だけが意味をもつ。実務家としての私の「暴論」をお許しください。

 勝負は最終的に結果ではあるが、そこまでたどり着く戦いには確実にコストが生じる。そのコストは直接コストだったり間接コストだったら、顕在的コストだったり潜在的コストだったり、短期的コストだったり中長期的コストだったりする。

 問題は、コストは誰が負担するかだ。日銀が投資家やトレーダーを負かした場合、確かに投資家やトレーダーはその分のコスト(損失)を負担しなければならない。では、日銀の市場介入、つまり「見える手」によって「見えざる手」を制御すべく両者が戦う場合のコストは誰が負担するのだろうか。

 日銀総裁は少なくともそれで給料や退職金を減らされることはなかろうが、ただ歴史に汚名を残したりするのは、名誉レベルのコストであるから、それだけは回避したい。退任にあたっては花道が必要であり、時限爆弾は美しい風呂敷で包んで後任に渡したいものだ。もちろん大義名分をつけてだ。

 結果的に「見える手」が「見えざる手」と戦うためのコスト、ないし敗戦したときのさらなる莫大なコストは、投資家そして国民に降りかかってくる。

 日本の場合、国債のほとんどが国内資金で消化されているので、ギリシャのような破綻はしないという定説がある。さらに「国債は負債ではなく、国民の資産だ」という主張すらある。ならば、国債の発行が増えれば増えるほど、国民はリッチになるはずだ。なぜ、そう感じていないのか。

 国は貨幣鋳造権(シニョレージ)があって、いささかこの貨幣鋳造権を乱発すると、市場に流通する貨幣の供給量が増え、貨幣価値が落ち(暴落するかもしれないが)、インフレを引き起こす。政府はやむを得ず、増税と社会保障の給付カットに踏み切る。理論上インフレの抑制はできるかもしれないが、そのコストは最終的に国民に降りかかってくる。それだけの話だ。

 日本社会では「言霊」の忌避とセットで、「未曾有」「想定外」という解釈による偉大な「危機対処策」が用意されているから、「安心」「安全」が実現できているのだ。だから、個人レベルでどうするかは、人それぞれの考え方次第だ。

 私個人的にいえば、海外在住であり、日本円資産はわずか当座決済分の少額預金しかもっていないし、さらに日本国の年金の世話になる予定もない。

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